私たちの世代で『愛宕山』といえば、古今亭志ん朝であった。
志ん朝の『愛宕山』は、兄の十代目金原亭馬生から稽古してもらったものである。山登りの前の晩、旦那の制止も聞かず、一八が飲み過ぎる場面が幕開け。一八だけが山登りに悪戦苦闘する伏線にもなっている。「オオカミはヨイショが効かない」という珠玉のギャグも有名だ。明るくて華麗で、まさに志ん朝落語を代表する噺である。
文楽十八番は、後に多くの落語家が演じている。『明烏』は、志ん朝、談志、小三治が演じ、『船徳』は、志ん朝も小三治も演じている。しかし、『愛宕山』は、志ん朝の独壇場だった。春風亭小朝を始め、現在演じられている型は、ほとんど志ん朝のものだろう。
私は、文楽の『愛宕山』を先に聴いていたが、志ん朝のを聴いて、すげえなあと思ったよ。文楽に影響を受けながらも、しっかり自分だけのものになっていて、しかも、もう一回り大きな噺になっていた。
だからといって、「志ん朝は文楽を超えた」とは言わない。志ん朝の『愛宕山』は素晴らしい。そして、文楽の『愛宕山』もまた、素晴らしいのだ。
志ん朝の『愛宕山』は、約40分。それに対して、文楽は20分で駆け抜ける。この疾走感がたまらない。いきなり春の野山に連れて行ってくれるのも、文楽ならではの演出である。そして、大正の花柳界が濃厚に匂い立つ。これは、やはり時代のもので、文楽・志ん生の世代にしか出せない味わいだ。
先日、みほ落語会で『愛宕山』を演じた。学生の時も演ったことがない。ネタおろしだ。いやあ、60過ぎて覚える噺じゃないわな。終わった時には、膝ががくがくしていたよ。この噺のきつさを身をもって経験した。この噺は体力を使う。
文楽は晩年、狭心症の発作を起こした。血圧も190を超え、落語研究会を休席する。
主治医から「(体力を使う)『愛宕山』は、もう演らないように」と言われると、文楽は「『愛宕山』ができない文楽は文楽ではない」と言って、それを拒んだ。
「ではもう少し楽な演じ方をしてください」と医者が譲歩するも、文楽は「私にはこのやり方しかできない」と言い張った。
狭心症で休席したのは1970年1月の落語研究会。代演は金原亭馬生が務めた(文楽は『小言幸兵衛』を演じる予定だった)。
その次の会、1970年2月の落語研究会で、文楽は『愛宕山』を出す。医者の反対を押し切ってのネタ出しだった。演じた後、文楽は上半身裸のステテコ姿になって、楽屋で大の字に横たわった。息遣いは荒く、大きく腹を波立たせ、それはかなり長時間続いた。(DVD『落語研究会八代目文楽全集』川戸貞吉の解説より)
文楽は無器用であるがゆえに、芸の高みへと到達した。しかし、身体が衰えるにつれ、理想と現実のギャップは大きくなる。無器用な文楽にはモデルチェンジはできなかった。やがて、その名人芸は崩壊を迎える。『愛宕山』は、その過程を象徴する噺になってしまったのかもしれない。
1970年2月の『愛宕山』の映像を観た。やり方は以前のまま。1954年の録音で20分5秒の口演時間が、この時はマクラを除いて24分30秒(1966年の録音でも20分5秒だった)。口調や間は幾分延びていたのだろう。言葉に詰まる箇所が2つ、3つあったものの、後半の見せ場の迫力は全盛期と遜色ない。この後、楽屋で長い間身を横たえたことが信じられないほど、充実した高座だった。ものすごい執念。でも、鬼気迫るとか悲壮感あふれるとかいうのではないな。文楽らしい陽気でご機嫌な噺になっている。そこが、またすごい。
文楽の最後の高座は翌1971年8月31日の『大仏餅』。そこで文楽は絶句し、その後二度と高座には上がらなかった。
弟子の柳家小満んによると、最後の高座の後、文楽は『愛宕山』を演じた後のように、楽屋で長い間横になっていたという。