大学1年の時、落研の同輩で、月見家春”短(つきみや・ばるたん)というのがいた。栃木県の、確か鹿沼の辺りの出身だった。
温和な人柄で、私は彼が好きだった。狛江の材木屋の真新しいアパートに住んでいて、私は3日に明けず彼のアパートを訪問しては酒を飲んでいた。(同じアパートの高知県出身の男も飲み友達になり、そいつも落研に入った。左門という芸名をもらったが、すぐに辞めた。)
私も若かった。いささか度を過ごしたのだろう。半年ぐらいで春”短は落研を辞めた。辞める時、誰かが「伝助が泊りに行き過ぎたか?」と訊くと、否定も肯定もしなかった。私は悪いことをした、と反省した。
あれは1982年の2月のことだった。私は狛江を歩いていて、偶然、春”短に遇った。
「よう伝助、久し振りだな」と彼は屈託なく笑った。「全然遊びに来ないじゃないか」
「行っていいのか?」と私が訊くと、「当たり前だろ」と彼は言った。
「実は俺、1年間休学するんだ」と春”短が言う。
「どうして?」
「シベリア鉄道に乗ってくる。大滝詠一の『さらばシベリア鉄道』に憧れてな」
また思い切ったことを。春”短には、こういうぶっとんだところがあった。
「もうしばらく会えないだろう。俺の方から送別会といっちゃ何だが、アパートで飲もうや」
それから酒やつまみを買い込んで、材木屋の敷地の中にある春”短のアパートへ行った。
私たちは1年の時のように酒を飲み、話をした。楽しい宴会だった。テレビは、ホテルニューオータニの火災でもちきりだった。
翌日、昼近くなって私たちは起きた。昼飯を食いに出たとは思うが、ずるずるべったり、その日も私は春”短のアパートで酒を飲み、泊まってしまった。
翌朝も昼近くに起き出したのだと思う。朝刊にはでかでかと、全日空機が羽田沖で墜落した記事の見出しが躍っていた。二日も続けて大事件が起きるとは、と私たちは驚き合った。
その日、私たちは昼飯を食って別れた。
春”短は「ゆっくりしていけよ」と言ったが、「二泊もしたんだ。十分ゆっくりしたよ」と私は答えた。
「じゃあ元気でな」と私が言うと、春”短は「ああ」と言って、屈託なく笑った。
あれから春”短には会っていない。結局、シベリア鉄道の土産話も聞けなかった。
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