2018年12月14日金曜日

雷門福助の証言 睦会の芸人たち


この間、記事にした雷門福助の話が面白かったので、物置から川戸貞吉の『初代福助楽屋話』(2010年7月 冬青社刊)を持って来て読み直している。これが面白い。

雷門福助。本名川井初太郎。明治34年(1901年)1021日、本所深川の生まれ。陸軍大臣の運転手、活動弁士などを経て、六代目雷門助六に入門し福助を名乗る。二つ目昇進後は音曲師として活動する。昭和の初め頃、名古屋に住み着いた。戦後は宿屋の主人をしながら、名古屋在住の芸人団体「名古屋互助会」の会長を務め地元で活動していたが、昭和5812月に東宝名人会に出演したのがきっかけで、度々東京の高座に上がるようになり、「落語界のシーラカンス」と呼ばれ脚光を浴びた。昭和61年(1986年)611日、86歳で没。
東京時代は睦会に所属、八代目桂文楽のもとに稽古に通った。その人と芸に心酔し、終生
慕う。福助にとって文楽は、文楽にとっての三代目三遊亭圓馬のような存在だったのだろう。(『古今東西落語家事典』では、助六の弟子になったのが22歳頃としてあるので、大正11年頃の入門なのだろうが、著書では大正8年頃には文楽の所に出入りしていたというから、正確な入門時期はよく分からない。)

この本では大正から昭和初期にかけての貴重な証言が多い。今回は、笠間稲荷神社の奉納額にある、睦会の芸人たちの人物評を紹介しよう。


まずは睦会のボス、五代目柳亭左楽から。
「五代目の左楽さんてえ人はあたしとおんなじで噺はあんまり上手くありませんでした。〝上手いなア〟と感心したことは一度もありません。『子別れ』『小言幸兵衛』などみんなが演るようなネタを演じていましたが、おもしろくないんですよ。
売り物はといえば『乃木将軍』。トリのときのネタは必ず『乃木将軍』でした。またお客のほうでも『乃木将軍』を注文していましたね。その『乃木将軍』は伊藤痴遊さんに稽古してもらった噺なんです。上手くはなかったが、あくまで会長で大看板。どうしてあんなに偉くなったのか。やっぱり睦会を上手にまとめていったからなんでしょうね。」
これに先立ってこんなことも言っている。
「(前略)このようにどんどん睦会が大きくなるにしたがって、左楽さんは楽屋でデーンと大きな顔をするようになってきました。ひとしきりの間というもの、あたし達若造連中はそばへも寄れませんでしたよ。威張ってて。大将ンなっちゃったわけですね。」
福助からすれば、五代目も横柄な人だったということか。ただその当時、福助は前座で五代目は会長、地位には天地ほどの開きがあった。

左楽の札の隣にあるのは、朝寝坊むらくになった柳亭柳昇。
〝フェー〟〝フェー〟ってしゃべりかたアする面白い噺家でした。酔っ払いと火事の噺が得意でね。(中略)あたしは好きでしたね、この人が。〝稽古してもらおうかな〟と思ったことが何回もありました。でも大のけちんぼう。あたしがまだ前座の頃ですが、何百万円ッて貯金してたんです。ところがその貯金していた銀行が潰れちゃったんですね。それで頭がポーッとなって、頭がおかしくなっちゃった。そのせいで駄目ンなってしまいました。」
八代目桂文楽の『富久』での「小便して寝ちゃおッ」というクスグリは、どうやらこの柳昇が源流らしい。

音曲師の柳家枝太郎は、八代目春風亭柳枝の父。
「大川端の花火を歌い上げる〝両国〟が絶品で〝両国の枝太郎〟と言われていたほどの音曲師です。あたしも都々逸やなんかを教えてもらいましたが、なんとも不思議な人でした。」と言って、小用の後でも紙を使う癇性ぶりを紹介している。
『古今東西落語家事典』によると、この人の最期は太平洋戦争末期の空襲で米軍の焼夷弾が家を直撃し、嫁と孫をかばって爆死するという壮絶なものだった。

『古今東西落語家事典』では昭和初年以降不明だった雀家翫之助の消息が、福助の証言で明らかになる。
「この翫之助のことも、死ぬまであたしが面倒見てやったんです。この男はあたしとおなじように、しばらく東京から姿を消してたン。それが何年かぶりで立川ぜん馬さんと一緒に東京の寄席に出て、二人とも真打ちになりました。
真打ちになったものの、いろいろあったんでしょう。名古屋へきたんです。しょうがないから幇間にしましてね、文長座へも出してたんです。あたしが川丈座に買われて九州のドサを廻ったりしてたときも、一緒に連れて行ったりしてたんですがね。
翫之助の売りものは『稽古屋』。最後に三味線を弾いて〝助六〟を踊ってました。色っぽい爺ィでどうにもしょうがない奴でした。」
残念ながら没年は明らかにされていないが、それでも貴重な証言だと思う。

柳亭芝楽については「この人は五代目左楽さんのとこにいた人ですが、噺はあんまり上手くありませんでした。吉原で女郎屋をやってた人です。」とのこと。

六代目林家正蔵(俗に「今西の正蔵」と言われた)は、「幹部の中でいちばんのうるさ型で理屈屋」。下谷のとんぼという寄席で、福助が『道灌』を演じて高座を下りて正蔵に挨拶した際、皆の前で「今、演ってたのは落語かい?」と言われたエピソードを紹介している。


神田伯山は清水の次郎長で人気を博した講釈師。
「この伯山てえ人は傍に人がいると銭ィくれるんですよ。サシでいるとなんにもくれないン。(中略)柳家小半治の兄弟子の柳家金三ッて奴がよくいってましたよ。
『おい、先生ンとこへ行こうよ、脇に人がいるから』」


初代睦会会長、四代目春風亭柳枝。(後に華柳という隠居名を名乗った。)
「華柳さん(四代目柳枝)はおとなしくて品のいい噺家で、
〝おい、お前〟ッて調子じゃアないんです。〝あなたねェ〟ッていうような口調。俳句や川柳に熱中してました。それにお茶を立てたり・・・。意地悪なんかぜんぜんしませんでした。楽屋にいても大きな態度なんかまったくしないんです。」
左楽の権力者然とした態度とは対照的。趣味人、文人という風情が漂う。

寄席については「四谷の喜よしと人形町の末広、芝の恵智十に神楽坂の演芸場、この四っつが親席なんです。こういう寄席へ上がれればいいんですが、(後略)」と言っている。

まるで大正から昭和初期にかけての東京の落語界を冷凍保存して、そのまま解凍したようだ。まさに「落語界のシーラカンス」の面目躍如と言っていい。何より当時の芸人たちの一人一人の人間性が立ち上がってくるのが楽しい。

それにしても、この記録を残してくれた、川戸貞吉氏の功績は大きいと思うな。

6 件のコメント:

  1. はじめまして。昔の落語界のことを調べていたところこちらに伺いました。
    大正時代の東京落語界や馬生師匠の記事など大変楽しませていただきました。
    お礼申し上げます。

    「雀家翫之助」の名前をお見かけして、今読んでいる青蛙房の六代目三遊亭圓生『寄席切絵図』にその名前があったのでコメントいたしました。
    圓生師匠が演芸会社(おそらく東京演芸株式会社)にいた頃、神田連雀町の白梅亭は睦会の寄席でしたが、席亭に声をかけられてちょうどそこに出ていた雀家翫之助を五代目圓生と一緒に見たという話です。(お好きでないかもしれませんが)圓生らしい表現で様子が評してありました。本名は覚えていないが高座で三味線を弾いたりしていた、睦会ができた時分真打が足りないと伊予の松山とかで幇間をしていたのを呼んだらしい、その後どういうわけか五代目圓生がよく使っていたなど。震災後もいたがいつともなくいなくなり亡くなったのもいつかはわからないということです。没年は不明のままですが、繋がる話だと思いながら読みました。

    リアルタイムに揉めている落語の話題をSNSなどで読むと変にショックを受けますが、最近明治大正時代の地方の寄席を調べるようになりまして、東京の寄席や協会にも関心が向くようになり、過去の出来事を本を読んだりブログを拝読したりすると穏やかに楽しく生の高座と別の面白さがありますね。

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  2. コメントありがとうございます。

    大正時代の落語会は離合集散が繰り返されました。もめごとも多かったんでしょう。とはいえ、師弟関係は今よりドライだったのではないかと思います。文楽も志ん生も師匠を変えています。文楽なんか、根岸の文治の弟子だったのが、師匠が気に入らず、五代目左楽門に移っています。今なら大変な騒動になっていたでしょう。しかも、文楽は戦後の落語協会で文治会長のもと副会長に収まっているのだから、すごいですよね。

    圓生の『寄席切絵図』は未読でした。思わずアマゾンで中古を注文してしまいました。実は圓生の本は嫌いではないんですよね。何と言っても資料として素晴らしい。あの記憶力は大したもんだと思います。まあ、彼の場合、芸の巧拙は重要な判断基準なので、批評は辛辣ではありますが。『寄席切絵図』、じっくり読んでいこうと思います。いい機会を頂けました。ありがとうございます。

    今後とも御贔屓に、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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  3. 先日はコメントお読みいただきありがとうございました。

    当時は師弟関係が今よりドライだった、というご意見には賛成です。大正時代の離合集散は明治から昭和初期の戦災や震災と経済的不況も影響が大きいと思います。地方の興行も調べているので客入りや不況で起こることは今とレベルが違います。師弟や組織の環境もかなり違うと感じます。この100年の変化なのかもしれません。大正時代を調べると左楽師匠も興味深い方です。文楽師匠も小南師匠の出来事からたどると政治的に強い左楽師匠につくのも変に納得するところがあります。
    圓生師匠の『寄席切絵図』取り寄せられたとのことで、そこにも移籍というには軽く感じる内輪になる話がいくつもあったように思います。

    改めて記事を拝読して雷門福助師匠が名古屋にいたことに気が付き、戦後大須演芸場に出られていたことや「名芸互助会」の会長をされていたことを知ったので、手元にあった加藤浩『落語小僧ものがたり 席亭志願再々』という本を開いてみました。
    加藤さんは東京で落語会をしているオフィスエムズの席主です。大須演芸場近くで生まれ育った方で、名古屋で見てきた演芸や芝居のことをこの本に書かれています。福助師匠は写真館だった加藤さん宅近くにアパートを持っており、家に遊びに来ては貴重な話を聞かせてくれたとか。名古屋での話は落語会の合間にも喜んで話して聞かせてくださるのですが、最近は「文生噺」というなつかしい話を盛り込んだ会で名古屋の話をされ始めたと聞いています。次はなんとか行きたいを思っていたので、すぐには難しそうですが川戸貞吉氏の『初代福助楽屋話』も読んでみたいところです。
    福助師匠は文楽師匠を慕っていらっしゃったといいますが、時期は違えど名古屋の縁があったのも関係あるのでしょうかね。私が調べているのが静岡中心で名古屋にかかることもあるからそう思うだけかもしれませんが。

    圓生師匠の本もそうですが、引き込まれて読んで落語家や寄席の記憶が繋がっていくのが楽しく、同じ出来事や時代を複数の証言で読むと発見がありますね。
    手元の本も他の本やブログを拝読して読み直してきっちり落語家の名前とエピソードが入ることが今でもあります。

    いつも長くなってしまいます。またブログのぞかせていただきます。

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  4. コメントありがとうございます。

    『寄席切絵図』、読んでいます。面白いですね。漱石の『硝子戸の中』に出てくる日本橋の伊勢本や鷗外の『鴈』に出てくる池之端の吹ぬきなんかも出てきてうれしくなっちゃいます。また、圓生の記憶力が素晴らしい。自分にも土地勘のある所は、その場所がありありと想像できます。
    それと五代目圓生が、まあふらふらしてて面白い。演芸会社を辞めて睦会に行き、そこも抜けて東西会に参加したり、三語楼の落語協会に入ったり。
    五代目は芸の上では名人で、彼を知る人たちは「六代目や文楽など五代目に比べれば」というようなことをよく言っています。三遊宗家の藤浦敦はその著書『三遊亭圓朝の遺言』の中で、五代目圓生に「圓朝」を継がせようという話が持ち上がり、本人もその気になった途端に急死してしまった、というエピソードを紹介しています。それだけの芸の力を持ちながら、政治センスやリーダーシップは持ち得なかったようですね。もっともそれは六代目にも言えますが・・・。

    福助が黒門町に通っていたのは名古屋に行く前からですね。文楽の弟子、七代目圓蔵は名古屋で幇間をしていた時、福助の世話になっています。
    大須演芸場には行ったことがあります。雷門獅籠のマンガに登場する芸人さんが結構出ていました。お客は我々を含めて4人でした。
    年末に大学時代の友人と愛知県を旅してきました。東海地方、なかなか面白いです。

    とりとめのない話になってしまいました。このブログ自体、とりとめのない話ばかりですが、今後ともよろしくお願いします。

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  5. 『寄席切絵図』での五代目圓生の様子、私も楽しいと感じました。六代目が先代(おやじ)と呼ぶイメージより若い時期だからなのでしょうか。圓朝を継がせる話がでていたとは知りませんでした。そもそも静岡の興行を調べるきっかけも圓朝だったので、『三遊亭圓朝の遺言』も読みたい一冊だったと思い出しました。こういう数珠つなぎはキリがありませんね。

    名古屋の縁と考えたのは、文楽師匠が若い頃小南師匠の帰阪で旅回りに出て名古屋にいたことがあったと記憶していたので、福助師匠が名古屋へ行く前から黒門町のところへいかれていたなら、黒門町とのおつきあいが名古屋で「名芸互助会」の会長をするまでにつながった気がしたのです。
    勝手なイメージで政治センスが伝承されたのかなと。政治というと嫌味になりますが、周りをまとめる術は傍で見れたら気配りの勉強にもなりそうに思います。
    静岡の寄席を調べていて文楽師匠が初めて旅まわりした話を「あばらかべっそん」で読んで感情移入があったかもしれません(笑)

    大須演芸場は以前と今で経営が変わっているそうですが、志ん朝師匠が気を配られた時期の他は苦戦だったと聞きます。4人の寄席は未体験ですね。。雷門獅籠さんのマンガ!知りませんでした。

    景色や日常の記事も楽しませていただいています。ご覧の通り話が長いので、ブログは書くより読む方が心穏やかになりますね。愛知はどちらにいかれたのでしょう。以前岐阜の郡上八幡に旅がてら落語会へ行ったことがありました。始まるまで散策して長良川の流れを間近に眺めて、美味しい水で淹れた喫茶店のコーヒーが美味しかったです。

    毎回余談が過ぎてすみません。お返事ありがとうございました。

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  6. こんいちは。

    雷門獅籠(2020年に登龍亭獅籠と改名したようですね)は、漫画家としても活躍していて、立川時代には『風とマンダラ』という本を出しています。名古屋の芸人をネタにしたのは『ご勝手名人録』というので、これも面白かった。大須では獅籠の落語も聴きました。『夏泥』を演りましたが、立川の口調でしたね。

    岐阜の多治見に大学時代の友人がいて、昨年の暮れ、彼と多治見から布袋大仏やら萩原宿やら一宮の街やらを見物してきました。ブログの記事にしてありますので、よろしかったら御覧ください。
    この友人は飛騨の高山の出身で、彼が高山や下呂にいた時は、名古屋から高山本線に乗って、ビール飲んだり本を読んだりして列車に揺られながら会いに行ったものです。車窓から眺めた渓流の風景が心に残っています。

    郡上八幡にも一度だけ行きました。古い街でいい感じでした。山の上にあるお城を見に苦労して上ったのですが、改修中で中に入れず残念な思いをしました。ただ、高い所から見た街並みはよかったなあ。この時の写真はブログにも載せています。

    『あばらかべっそん』もお読みなんですね。もともとこのブログは、八代目桂文楽のことを書いてみようと思って始めたものです。文楽や出口一雄の記事もよろしかったら、どうぞ。

    今後とも御贔屓の程を願っておきます。

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