2018年12月19日水曜日

山本祥三『東京風物画集』




山本祥三という名前を知ったのは、『画集・銀座のカラス』(沢野ひとし 本の雑誌社1995年刊)の沢野の文章によってである。
「銀座のカラス」は、椎名誠が朝日新聞に連載した小説。他の椎名作品同様、挿絵を沢野ひとしが担当した。その挿絵をまとめたのが、『画集・銀座のカラス』である。
この本で、椎名誠は「この十数年で沢野君の絵は随分変わった。とくにこの七~八年の変化は線がやさしくなり、描く人間や風景にどこか深い哀調が漂うようになってきた。」と書いている。
これには私も全くの同感で、沢野の描く、一見ラフな線で細かく描きこまれた東京の風景に、強く心惹かれたのだった。
そして、沢野のこんな文章にぶつかる。
「山本祥三という画家を知っている人が何人いるだろうか。彼は昭和三年、東京は深川に生まれ、昭和三十二年に二十九歳の若さで亡くなった。東京の下町から盛り場、名所旧跡まで、ぬくもりをもったペンや筆で描かれた東京の風景はかぎりなく優しい。
(中略)
モノクロで描かれた彼の絵を、ペンや筆で模写し、模倣することによって、僕の絵もこの数年大きく変わっていった。インパクトのある強い絵から叙情的な風景へ少しずつ変わっていったのは、山本祥三の絵の影響といっていい。」
こんなこと書かれると、どうしたって山本祥三の絵を見たくなるでしょう。
以来私の頭には、山本祥三と彼の唯一の画集『東京風物画集』が強く刻み付けられた。
ところが、この本になかなか巡り合えない。
アマゾンで本を買い始めた頃、一度注文にまでこぎつけたが、いざとなったら品切れで、買い物は成立しなかった。
それが最近、そのアマゾンで買えたのだ。『東京風物画集partⅠ』『東京風物画集partⅡ』ともに相次いで買えたのだ。ほぼ二十年越しの夢がかなったのだ。さすがアマゾン、恐るべし。
昭和56年に雪華社から出た初版本。ということは、沢野ひとしが持っていたのとまさに同じ本である。
年譜によると、山本が東京のスケッチを始めたのが昭和2910月。昭和3110月には、その絵と行動が朝日新聞に紹介され、同年同月に江東楽天地で路上展を開催。その時に木村荘八に激励され師弟関係を結んだ。引き続き、池袋西武デパートで展覧会を開き、翌月には早稲田大学文化祭に出品するも、昭和321月に持病の胃下垂が悪化。同年9月に入院。そして、1029日、胃下垂神経症による栄養失調で29歳の短い生涯を終えた。
この画集は、昭和38年に発行されたものを分冊にしたもの。昭和29年から昭和31年までの、167点の東京の風景が収められている。素朴で丁寧なタッチで描かれた、詩情あふれる作品の数々に圧倒される。
山本が師と仰ぐ、木村荘八の評を紹介する。
「(前略)その絵の仕事は、何といっても『出発』早々のことであるから、稚筆は免れない影に、早くも光鋒きらめき、『写実』の眼のよく届いた人で、太筆の素描(毛筆)と、細緻の(ペン画)を技法とし、何れかといえば細緻のペン画の素描に、鋭さが汲めて、色彩はまだ多く使うことをしなかった。黒白の調子は、その屢々『版画』に向く画式に、既に堂に入った出色があり、第一に僕が山本君に惹かれたのは、材料の着眼の、平板凡庸でないことだった。常に取材の急所々々緩急抑揚のカンがよく働いて、一つには同君が、一方、『詩人』だった感受性も助太刀したことだったろうか、それが若い人のまゝに、極めてたのもしい・好ましい感を受けたのだった。」(「まえがき・山本祥三の『東京スケッチ』」より)
もう何も足す言葉はない。
蛇足だが、巻末に収められている、日記やスケッチ・メモもいい。それはもはや一編の詩である。

実物も見てみたいなあ。笠間日動美術館あたりで特別展、やってくれませんかね。


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