2018年12月2日日曜日

桂文楽 黒門町へ 再検証


大分前だが、桂文楽の記事で『黒門町へ』という記事を書いた。
これは、文楽は三番目の妻との結婚によって黒門町に居を構えた、というものであった。
資料としたのは、柳家小満んの『べけんや わが師、桂文楽』で、「そして翌年の大正十三年には、横浜の芸者さんと黒門町のお宅で、三度目の所帯を持った」と、しっかり書いてある。
ただ、異説はある。『対談落語芸談2』(川戸貞吉編 昭和60年 弘文出版刊)での雷門福助の証言である。
この中で福助は、文楽の二番目の妻、日本橋(江戸橋トモ)の旅館丸勘のおかみ、鵜飼富貴の次に、雑司ヶ谷のお寺の離れで所帯を持った女を三番目の妻としたうえで次のように言っている。

福助 三番目の女の人は誰だったか知らないけど、それから後に文楽師匠のかみさんになった五人目、六人目の女は知ってるんですがね。
川戸 ほーう。
福助 五人目は富士見町の待合のかみさんをかいて、今の黒門町 — 「黒門町黒門町」ッてみんないいますけど、あれァ自分の家じゃァないんですよ。あれァ死んだ音曲師のしゃっくりのかしくてえ人がいたン。
川戸 ええ。
福助 その人の家なんですよ。かしくさんが死んで、そこへ黒門町が飛び込んで、かみさんをかいて、そこで夫婦で一緒に暮らしてたんですよ。それが四番目ぐらいのタレですよね。
川戸 ははあ…。
福助 それで黒門町へ住んでるうちにかみさんも死んじゃった。で、今度(こんだ)五番目の女が、富士見町のおかみさん。
(中略)そのおかみさんと話が出来て、待合へ長いこと入り込んでいたン。そのうちに待合をやめて「黒門町へ越そう」ッていって、黒門町へ越したのが、これですよ。(と写真を出す)

文の家かしく。本名吉岡力蔵。万延元年7月生まれ、大正1231日没。笠間稲荷にある睦会の奉納額にも名前が見える人である。


文楽が丸勘のおかみと別れたのは関東大震災がきっかけだから大正12年。震災が91日だから、その頃にはかしくはもう死んでいる。
福助の言う「富士見町の待合のかみさん」が、「長屋の淀君」といわれ、文楽と長く連れ添った寿江夫人のことだろう。寿江夫人と文楽との結婚は、大正14年。「ひーさん」こと樋口由恵の仲人で神田明神で式を挙げ、講武所の「花屋」という料亭で披露宴をしたという。(ウィキペディアでは三番目の妻しんと別れたのは昭和3年、寿江夫人との結婚を昭和15年としている。出典は明らかではない。戸籍がそうならそう書いてほしいところだが。)
すると、文楽が黒門町に越したのは大正14年頃(ウィキペディアの記載だと昭和15年か)になる。で、福助が出した写真が『対談落語芸談2』に掲載されているのだが、それを見ると、文楽は明らかに老境に入っているし(大正14年当時、文楽は33歳。昭和15年でも48歳だ)、寿江夫人は膝にスピッツを抱いている。この犬は現文楽など戦後に弟子入りした人たちの話題に上る「チイちゃん」であろう。私にはこの写真が戦後に撮られたものとしか思えなかった。


CDブック『八代目桂文楽』の解説本にある年譜でも、「大正十三年 横浜の芸者(しん)と三度目の結婚。/大正十四年 しんと別れ、寿江と四度目の結婚。」と書かれてもおり、福助の話に今一つ確信も得られなかったので、私はいわば正史に沿って記事を書いたつもりだった。
いずれにしても、文楽の結婚生活が落ち着いたのは寿江夫人以降。それまでの文楽の女性関係は複雑を極め、正確なところは分からないだろう。雷門福助の話は時系列での混乱が見られたので、私は記事にはしなかったのだが、当時を知る人の証言として、やはり重要だったと思う。もしかしたら、かしくの妻との一件は文楽にとって封印したい過去で、弟子などには改編して話していたという推測もできるかもしれない。

とりあえず、福助説とウィキペディア説をまとめると、以下のようになる。(※印はウィキペディアにおける記載より)
・関東大震災で丸勘が被災、鵜飼富貴と別れる。(大正12年)
・別の女(横浜の芸者「しん」か?)と雑司ヶ谷の寺の離れで所帯を持つ。(大正13年)
  ※武本志んとの夫婦関係は大正13年から昭和3年まで。
・文の家かしく未亡人の住む黒門町の家に入り込み、夫婦となる。
  ※時期不明。
・かしく未亡人死後、富士見町の待合のおかみ(寿江)と関係を持ち、長期間待合に入り込んでいたが、やがて待合を廃業し黒門町に移る。
  ※岸寿江との結婚は昭和15年。

ちなみに2015年刊の『文藝別冊八代目桂文楽』の年譜では、CDブック『八代目桂文楽』の解説本と同様、三度目の結婚(しんと思われる)を大正13年、四度目の結婚(寿江と思われる)を大正14年にしている。



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