以前、落語『目薬』から「つけべし」という言い回しについて、あれこれと書いたことがある。
本来「べし」は終止形に接続するので、正しくは「つくべし」であろう。これは誤用ではないか、と思ったのである。
ところが、その後、夏目漱石の『坑夫』を読んでいて、「気をつけべきこと」という記述にぶつかった。どうやら明治の東京では、「つけべし」という使い方があったようだ。私は誤用だと思うのだが、誤用ではないのだろうか、合理的説明はつくのだろうか、色々疑問に思っていた。
ある時、「べし」の用法について、その辺りに詳しい人に聞く機会があった。彼はこう説明してくれた。
「それは誤用です。では、なぜそんな誤用が起きるかというと、『べし』というのは助動詞なんですが〝強い〟んですね。付属語なのに自立語の用言のような扱いを受けやすい。だから誤って連用形に接続するということがある。『つく』の連用形は『つけ』、よって『つけべし』という使い方はあるんです」
なるほど、そうか。すとんと腑に落ちた。ただ、同じ連用形でも「笑ひべし」とか「閉ぢべし」とかは言わないように思う。一方、下二段活用とは相性がよい。「受けべし」とか「掛けべし」とかは言いそうだ。つまりはエ段の音と相性がよいということか。
こういうことをあれこれ考えるのは楽しい。
もうひとつ、この間記事にした『紋三郎稲荷』。六代目三遊亭圓生は「今は取手(とりで)」と言いますが、昔は『とって』と言っていたんだそうで」と言っていた。
「取手」は「とりで」という読み以外はありえない。何たって「砦(とりで)」が語源なんだから。でも江戸の人が「取手」を字面から「とって」と誤読することは、いかにもありそうだ。
圓生は古い速記本を見てこの噺を作ったから、その演者も「とって」と言っていたのだろう。しかし、圓生の口ぶりから、昭和には既に「とりで」が一般的だったことが分かる。だったら、わざわざ「とって」を持ち出す必要はなかったはずだ。
ここで私は圓生の『紋三郎稲荷』が、その当時得意にしていた二代目三遊亭円歌のそれに対抗して作られたということに注目したい。圓生は円歌から稽古してもらった、弟子好生の『紋三郎稲荷』を聴いて、「これではまるで駄目だ」と言って作り直した。「自らの『紋三郎稲荷』こそが正統である」というメッセージがそこにある。
円歌は平馬が駕籠に乗る場所を「幸手(さって)の松原」で演じている。笠間から江戸に出るのに、わざわざ幸手に行ってから松戸に回るのは、水戸街道を上って取手を通るよりはるかに遠回り。病み上がりの平馬が、そのルートを選ぶとは考えにくい。円歌が「とって」と「さって」とを間違えて覚えた可能性がある。もしかしたら圓生は、「円歌さんは幸手(さって)でやっていますが、実は取手(とって)の間違いですよ」という意味を含めて、昭和の時代には一般的でない「とって」という読み方をわざわざ持ち出したのではないか。いささかうがち過ぎかもしれないけれど。
五代目柳家小せんも「とって」を出してくるが、これは圓生がやったままを演じているからだろう。鉄道路線図などで「取手」は「とりで」と読むのが一般的になっており、ここでわざわざ「とって」を持ち出さなくてもいいと思う。最初に「とって」と言われると、そこでつい引っかかってしまうんだよなあ。(茨城県民だけかもしれないけれど)
とまあ、色んなことに思いを巡らせてしまった。これも、コロナ禍でどこへも行けないからだろう。せいぜい家でおとなしく、猫を抱いたり(犬はいないので)、紅茶飲んだり、本読んだりしていましょうかね。
殿様、ついに国民に一律10万円を配ることにしたらしい。「こんな時に批判するな」「何もないよりマシ」なんて言っていた人たちの言うことを聞いていたら、「和牛券」やら「お魚券」か、小っちゃな布マスク2枚が届いていたかもしれない。声を上げるって大事なんだな。
ミー太郎、今、人間社会は大変なんだぞ。 |
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