先日、千葉県神崎町に行った時、ちょっとだけ歩いた。
利根川の水運で栄えた町。ここはその名も河岸通りである。
水戸藩幕末の天狗党の資料を漁っていたら、神崎町が出てきた。清河八郎という勤王の志士が、神崎に来た記録がある。
「清河八郎、水戸藩の士天狗と称するもの境外に脱し金穀を募り横浜を襲撃せんとするを聞き、其の形勢を伺はんと欲し一僕を率へ、佐倉、酒々井、成田、飯岡を経て神崎に至り、同志村上政忠に会し、始めて石坂宗順に交る。二子と相携へて佐原を経、舟に乗じて潮来に至り、天狗党の酒楼に飲むを知り、之に会せんと欲す。天狗辞して遭はず。詩人宮本茶村を訪ひ時事を談ず。神崎に泊する三日にして江戸に帰る。二月、別に天狗なるもの与に為すあるに足らざるを以て別に今年八、九月の間を以て尊攘の挙に出でんとす。」
清河は水戸の天狗党が横浜襲撃を企てていると聞き、連携しようとして神崎まで来て、潮来で彼らと接触しようとしたが不調に終わったらしい。
清河八郎(1830~1863)は庄内藩出身の志士。尊攘運動に奔走する一方、京都で浪士隊を募り新選組結成への流れを作った。幕府を利用しながら尊攘の先駆けとなるという奇策を弄せんとし、近藤勇らと袂を分かつ。1863年4月、江戸で幕府の刺客、佐々木只三郎らに暗殺された。
水戸の尊攘派が横浜襲撃を称して軍用金の徴発を始めたのが文久三年(1863年)だから、清河は神崎から江戸に帰って間もなく殺されたことになる。
そんなことが、この町にあったんだねえ。
時事ネタ。
我が国の首相が代わった。
秋田県の農家に生まれ、高校卒業後東京に出て就職、大学の二部を卒業し、地縁も血縁も地盤もない横浜で政治家を志した、「たたき上げ」の人だという。
以前、私は、この人が権力の中枢に座った時にこの経歴を知って、故野中広務氏のような存在になってほしいと思った。(落研の後輩と同じ高校を出ていたし)しかし、甘かったな。
苦労した人は二つのタイプに分かれる。弱者に優しい人と弱者に厳しい人だ。後者は「自分は苦労してここまで来た。弱者に甘んじているのは努力が足りないからだ」と思うらしい。
この「たたき上げの人」は、今までの言動を見ると、どうやら後者のようだ。沖縄や批判的な女性記者などへの対応からは「政治技術として「いじめ」を使うことをいとわない政治家」(朝日新聞・社説余滴「すがすがしくおめでたい」より)の姿が透けて見えてくる。
いずれにせよ、前政権をそのまま引き継いだような形で、新政権は始動した。それをお祭り騒ぎで迎える人たちが、またいっぱいいるねえ。「こっちの水は甘いぞ」と言っているように見えなくもないな。
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