2021年2月5日金曜日

金原亭の落語協会分裂騒動・補足

 以前、落語協会分裂騒動において、十代目金原亭馬生の行動を記事にした。

金原亭の落語協会分裂騒動(『小説・落語協団騒動記』より)

馬生は「落語協会は出演をボイコットする」ということを鈴本演芸場社長に通告し、そのことで分裂を最小限に食い止めた。

実は一方で馬生は当時の若者二人(上野鈴本演芸場現社長と新宿末広亭現席亭)にこんなことを持ち掛けている。

以下は新宿末広亭現席亭、北村幾夫の証言である。

「(圓生師匠の一門がいないと)困る。我々も困る。つまり、今こうだから、寄席には圓生さんが頭を下げたと思われる。圓生さんには“寄席側が頭を下げて戻ってくれと言ってると。あたしがそのへんを巧く濁して仲介するから。あなたがた二人が圓生師匠のとこ行って“先のこと考えると寄席は師匠たちを失うと痛手だから戻ってきてください。末廣亭の大旦那も鈴本の社長も同じ考えです”って言えば、話し合いのテーブルに着くだろう。お父さんたちには“圓生師匠たちが謝りたいって言ってる”と言ってテーブルに着けなさい。そうなっちゃえばね、どっちが先に頭を下げた云々じゃなくて、あたしが“まあまあ”って元の鞘に収めるから。そん時にあたしが連絡するから、圓生師匠のとこに二人、動いて」

しかし、この工作は実現しなかった。協会側、圓生側双方がマスコミを介して中傷合戦を始めてしまったからだ。

馬生は北村にこう言ったという。

「これだけこじれるとダメだなあ。あんたたち二人なら、後に話が上手くいかなくても傷つく体じゃない。“あの若い奴らが変なことしやがって”で済むと思ったんだけど」

 

ここで驚くべきは、馬生の懐の深さである。彼は落語協会という組織を守りつつ、誰も傷つかない形でお互いの関係を修復しようとしていたのだ。

ちなみに、落語協会会長の小さんは、馬生を副会長にした以外はほとんど何もしなかったと言っていい。私はそこに、漢の劉邦や新選組の近藤勇に通じる大きさを見る。

圓生サイドにはこのような「大人」がいなかった。

談志は分裂を主導しメンバーをかき集めながら、自分がトップに立てないと分かると逃げ出した。圓楽は一門の結束を焦るあまり、弟弟子を恫喝して、かえって足並みを乱した。そして志ん朝はあまりに純粋だった。

 

このエピソードが収められているのは『十代目金原亭馬生 噺と酒と江戸の粋』(石井徹也編)という本である。この本では馬生の人間的な大きさが、様々な人の証言を通して遺憾なく描かれている。

それにしても54歳の死は早過ぎた。落語協会会長が、小さん、馬生、志ん朝と継承されていたらと、どうしても私は思ってしまうのである。




23 件のコメント:

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  2. 享年54ですか…、早すぎますねぇ。
    55才になったばかりの自分の立ち位置をあらためて考えさせられます。文末の本、私の本棚にもあります。もちろん、表紙の師匠のような「粋な酒呑み」になりてェなというミーハーな気持ちで買いました。( ´艸`)
    ありきたりの例えで面白くありませんが、月(馬生)と太陽(志ん朝)というの、的を得ているとおもいますね、表の意味でも深読みしても…。
    も少し早く生まれてりゃなぁ…。改めて読みなおしてみます。

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  3. 「も少し早く生まれてりゃなあ」というのは私もです。
    もう10年早かったら、文楽・志ん生に間に合ったし、ビートルズもリアルタイムで経験できたかもしれません。でも、それもきりがないですよね。馬生や柳朝、志ん朝・談志を楽しめたことを、私は幸せに思うべきなんでしょう。
    何事も巡り合わせ、出会えたものを大切にしていこうと思います。

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  4. お早うございます。
    1のコメント誤字等が有りましたので、改めて投稿します。

    三遊亭圓丈師の『御乱心』や金原亭伯楽師の『小説落語教団』にも書かれておりますが、
    理想を求めて円滑な対応が出来なかったのが、三遊協会のメンバーだった

    やはり状況をみて大人の対応をしたのが小さん 馬生 三平だったと云われております。
    志ん朝 圓鏡の復帰に一門の筆頭として対応できる存在として、小さんが馬生 三平
    (三平は圓生師から良く思われていないので自ら残留)を
    残留させたのが大きかったと云われております。(馬生師を副会長にさせた事も)

    馬生師も志ん朝師も50代半ば 60代前半という早いご往生でした。
    もう少し生きられたら、小さん師も70位で会長を勇退し馬生師に10年余り勤めて志ん朝師に
    小さん-馬生-志ん朝という路線があったのかとも思います。

    馬風師の証言によると「他にやれそうなのが居ない」と云うのが小さん会長の長期政権になった理由だそうです。
    (それも崩壊しましたが)落語協会は古典の名人と云うのが会長という暗黙の了解が有ったのでしょうか?

    分裂騒動 圓生-正蔵と順番で正蔵会長になるとどうなっていたのでしょうか?
    それ故に正蔵師を会長にしたくない為に若い小さん会長にしたが、バックに兄弟子の正蔵が居て自分を乱すので憤慨したということなのでしょうか?

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  5. 「落語協会会長は古典落語の名人」という流れは確かにあったと思います。
    四代目小さん、八代目文治、八代目文楽、五代目志ん生と来ていますからね。志ん生の後は香盤順でいえば二代目円歌だったんですが、志ん生が「次は圓生に」と言ったんじゃないかな。それでは角が立つというので、もう1回文楽がやって、そのうちに円歌が亡くなり、六代目圓生が会長に就任しました。
    圓生が会長を退任する時、八代目正蔵が副会長でしたが、正蔵を顧問に棚上げして、五代目小さんを会長に指名しました。正蔵は圓生よりも年上だし、小さんの芸の評価がやはり高かった(正蔵より高かったと思います)し、それはそれで、いい判断だったと思います。
    ただ圓生は小さんが会の運営の相談をしてくるだろうというつもりで「自由におやんなさい」と言ったら、また小さんという人は本当に素直な人だから自由に始めちゃったんですね。で、考えの近い正蔵の意見が反映されてしまったのでしょう。
    圓生は正蔵を下手だと思っており下に見ていましたので、面白くなかった。確執はそんなふうに生まれていったのだと、私は思います。

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  6. お早うございます。
    当時リアルタイムでは知らなかったのですが、
    文楽師と志ん生師が「落語協会」の看板で二大巨頭、「楷書と草書」の違いと
    云われておりましたが、亡き後圓生師と正蔵師が二大長老の様に云われておりましたが、
    評価は圓生師の方が高かったのでしょうか?

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  7. 当時の評価は圓生が上でした。私もそう思っていましたが、今聴いてみると正蔵いいですね。
    言うなれば「叙情の圓生、叙事の正蔵」。人物描写は圓生が際立って巧い。一方正蔵は物語を語るに味わい深い。どっちもいいと思います。
    当時としては圓生が「万人が認める名人」、正蔵は「分かる人には分かる」といった感じでしょうか。

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  8. お早うございます。

    》「叙情の圓生、叙事の正蔵」。人物描写は圓生が際立って巧い。一方正蔵は物語を語るに味わい深い。どっちもいいと思います。
    当時としては圓生が「万人が認める名人」、正蔵は「分かる人には分かる」といった感じでしょうか

    確かに云い得てると思います。
    噺派が圓生 かたり派が正蔵と云った処でしょうか?


    真打問題に関しては、実力主義の圓生 人情派の正蔵の対立が有り、 上野鈴本の席亭が実力主義を導入する話を談志に持ちかけたのが発端である事も伺われました。

    唯、三遊協会も圓生の意に賛同し参加したのは志ん朝だけで、
    圓楽 談志は真打論に関しては正蔵 小さんの意見に近いものが有り、三遊協会から受け継がれた
    圓楽党は5-7年で真打。
    当初「年数来れば皆真打にせよ、売れるも売れないも自己責任」と云っていた談志
    立川流を立ち上げ、落語協会時代からの弟子や、初期の弟子は(実力者は抜擢するが)大体真打にしていたが、最期は20年も前座の者が居て、ある意味圓生師の意を受け継いだのは談志師なのでしょうか?
    (と云っても家元制度で上納金を納めるのが嫌で真打を辞退したり、前座のままでいる人も居ると云う話を
    来た事が有ります)

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  9.  松風亭様は黒門町(八代目文楽)師について深く書かれており、興味深いと思い読ませて戴いております。

     たらればの話に成りますが、
     圓生→小さんへの会長交代時や大量真打問題の時に未だ黒門町がご存命ならば、圓生と正蔵 小さんの対立も上手く納めてくれて分裂騒動も起きなかったのでしょうか?
     黒門町が柏木(圓生)に「お前さんの云いたい事は解るが、少ない寄席で二つ目もあぶれている
    ここは理解し欲しい」と云う具合に納めてくれていたのでしょうか?

     談志師も「圓生師は実力あっても人が集まって来る人でない、やはり文楽師匠となる」と云われていたと
    思います。

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  10. 談志に関しては、矛盾があり過ぎてよく分かりません。
    ただ、彼の理想は圓生だったと思います。「誰からも上手いと言われたい」というのが談志でした。しかし、同世代に志ん朝がいましたからね。上手さよりは凄さに行かざるを得なかったのでしょう。
    また、談志は基本的に「下手は嫌い」だったから、真打観は圓生に近いとは思いますが、志ん朝・圓楽に抜かれたトラウマがあって順番を重んじた部分もあります。だから、この辺りも分裂していますね。

    文楽がもしあの騒動の時にいたとすればのお話ですが、こればかりは本当に「たられば」ですね。
    そもそも文楽存命中なら、圓生はあんなに強気には出られなかったろうと思います。「圓生さん、あなたねえ、あなたも真打になった頃はセコでしたよ」でお終いだったんじゃないかなあ。
    でも当時文楽が生きていたとしてたら86歳ですよ。あんな騒動を収める元気はなかったと思いますよ。

    ご質問ありがとうございます。おかげで色んなことを考えるきっかけをいただいています。
    今後とも御贔屓の程よろしくお願いします。

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  12. お早うございます。
    前の文書少し可笑しな処がありましたので、改めて投稿させて戴きます。
    三遊亭圓丈師の近年出された『師匠 御乱心』を改めて読ませて戴きました。
    此方と伯楽師の『小説落語協団』を見ると、
    1 鈴本の構想に談志師が動きたまたま真打問題に反対の圓生師を担いだ事
    2 もし新協会(三遊協会)を受け容れるならば、
      鈴本への出演を止めると小さん会長 馬生副会長が申し出たので頓挫した。
    と云うのが理由と云うのが伺われました。

    表立っての喧嘩をしなかったのが小さん会長 馬生副会長 そしてその背景には新宿末廣亭の席亭の存在が
    大きかったのでしょうか?
    末廣亭の席亭も圓生師が根回しをした時点で、圓生師は認められたと思ったが、
    「層の薄さ」を指摘した事と真打問題はじめ好き嫌いの露骨さを表す圓生師の性格を買っていなかった事が
    要因であると云われております。

    数年後談志師が立川流を立ち上げますが、小さん師は「何時でも戻れるように」馬風師をパイプ役に使われたのでしょうか?
    この様な処世術に長けていたのが小さん会長だったのでしょうか?

    又、圓生師とは犬猿の仲とされた正蔵師も「心配しなくったってちゃんと戻れるようにしてあげるから」
    と云われ圓窓師以下の弟子たちは復帰しますが(香盤は下げられた事と、圓生一門の解体と云う罰則はあったが)圓楽師とその弟子の人は「圓楽党」として活動されますが、「三遊協会」発足後からは師圓生師と不仲になり、一門の弟弟子とも合わなかったので復帰しなかったのでしょうか?
    圓生没後夫人から「三遊協会を圓楽には引き継がせないし、名乗らせない」と迄云われたそうですので、
    全く別協会として「圓楽党」を立ち上げたという感じなのでしょうか?

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  13. 談志が戻れるように、小さんが馬風をパイプに使ったかは分かりません。
    分裂騒動の頃には談志は一門で総スカンになっていたらしいですし。
    ただ離脱した談志の弟子は馬風門下になっていますね。分裂の際、正蔵がした役回りを馬風がしたんじゃないかなと思います。
    後年、誰かが(志ん朝か小朝だと思いますが)談志に協会復帰を持ち掛けた時、「協会にいる元弟子をクビにしたら戻る」と言ったらしいです。戻るつもりがなかったか、そこまで自分を高く買ってくれなきゃ嫌だと思ったか、裏切った弟子がそれほど許せなかったか、よく分かりませんが、どれもなんでしょうね。

    圓楽は、とにかく弟弟子との関係はよくなかった。分裂の時に圓窓を取り込んだぐらいでしょう。圓生の信頼をかさに着て相当強権的だったようです。そして分裂後は圓生夫妻ともうまくいかなくなりました。
    圓楽としては圓生死後も「圓生ブランド」を利用したかったのでしょうね。名前は変えましたが、圓生の遺子を継いで協会には戻らない、という感じでした。でも「入門10年には一律に真打にする」など、何のために分裂したんだ、というようなことをやり始めましたからね。最初の理念からすれば別協会と言っていいのではないかと思います。

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  14. ×遺子→〇遺志

    小さんは「処世術に長けている」というよりも、「純粋な人ゆえに人望がある」と言った方がいいんじゃないかと思います。

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  15. 》圓楽は、とにかく弟弟子との関係はよくなかった。分裂の時に圓窓を取り込んだぐらいでしょう。圓生の信頼をかさに着て相当強権的だったようです。そして分裂後は圓生夫妻ともうまくいかなくなりました。
    圓楽としては圓生死後も「圓生ブランド」を利用したかったのでしょうね。

    10年程前に起こった、圓生襲名問題も圓楽師が圓生ブランド欲しさに弟子の鳳楽師に継がせるという風に
    され、それに憤慨した圓窓師や圓丈師が襲名に名乗りを挙げたという事なのでしょうか?

    その人の視点で見ただけでは解りませんが、やはり圓丈師の著書でも志ん朝 圓鏡は良い人に描かれ、
    圓楽は強権的で権力志向の強い人物、師匠圓生も「弟子に好き嫌いを露骨に表す」事など批判的に描かれております。

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  16. そもそも圓楽は、圓生死後に交わされた「名跡封印」に立会人の一人として名を連ねています。
    その圓楽が七代目圓生襲名に動いたので、圓窓がまず異を唱えました。圓丈は圓窓が元柳枝門下だったことを理由に、子飼いの自分がと名乗りを上げました。
    鳳楽は圓生にかわいがられた孫弟子なので、この襲名は筋目としては悪くなかったと思います。一方で圓楽のやり方に批判があったのも、しょうがないと思います。
    圓生という落語界の至宝ともいうべき名跡が途絶えてしまうのはもったいなく、いつか復活してほしいものですが、襲名騒動でそれも遠のいてしまいました。
    圓楽がしっかり師匠を支えて信頼を確かなものにし、自らが七代目を継いでいればいちばんよかったのでしょうが・・・。(とはいえ、私はあまり圓楽を買っていなかったので、それもなあ・・・)
    圓生の人柄に関しては、自殺した弟子の一柳もそんなふうに書いていますね。ただ芸は素晴らしい。そしてああいう人柄だからこそ、あのような芸が磨かれたのかもしれません。

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  17. 馬生さんも正蔵さんも素晴らしい人格と芸を持っていらっしゃったのに、二人とも不遇だったのが残念です。

    正蔵さんは、文楽さんや志ん生さん、金馬さんや円歌さん等の上の世代や歳上の売れてる後輩とは芸を比較されず、彼らが居なくなって漸く圓生さんや柳橋さん等の同世代で歳の近い落語家さんと比較されて評価されるようになり、とても遅咲きの名人だったなというのが自分の印象でした。
    圓生さんや柳橋さんは文楽さん達と比較されたりする記事は多く出ましたが、正蔵さんは上の世代の人とはあまり比べられる事はありませんでしたね。
    これは評論家に嫌われてたり相手にされなかったことが原因でしょうね。
    正蔵さんには幹部に名を連ねるなど確かな実績と芸は昔からあったんですけど、やはり当時は評論家たちが力を持っていたから相手にされなかったんでしょうけど、最後はしっかりと正蔵さんの芸を評価されたのは本当に嬉しい事です。

    けど馬生さんに至っては正蔵さん以上に不遇過ぎて本当に切ないです。
    志ん生の七光りと言われるだけでなく、少し後輩の三平さんや歌奴さんや小金馬さんがテレビに出て売れてる中、自分は芸に熱心に取り組んでいたのに、弟の志ん朝さんの世代に飛んで注目が集まり、上からも下からも板挟みのような状態になり本当に運の悪い人だと思いました。
    唯一の救いは東横落語会の様な馬生さんが活躍できる場所があったことと、馬生さんを支えてくれた家族や良いお弟子さんの存在があったことですね。
    もし10年生きていれば小さんさんや志ん朝さんを上回り、親父の志ん生をも脅かす名人になったかも
    しれませんが、所詮はたらればの話です。本当に惜しい人でした。

    あと馬生さんとこの騒動についてちょっと疑問が有ったのは、小さんさんが馬生さんに会長を譲ると言ったのに、それを撤回したのは何ででしょうね?
    これも談志さん絡みか、それとも新宿の席亭さんが全てを白紙にしろって言ったから、それで勝手に責任を取って辞めたら席亭さんに何か言われるから会長に留まったんでしょうかね?

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  18. 正蔵の芸はガキの時分には分かりませんでした。
    談志なども「正蔵は下手だ」とはっきり言っていますし、彼の信者もそういう認識でいると思います。
    私が正蔵をいいなと思ったのは40過ぎてからでした。一度はまると、あの叙事的な語りが何とも言えません。また剽軽なところがあって面白いんですよね。
    まあトンガリで媚びることが嫌いな人だったから、評論家にはウケがよくなかったのでしょう。
    TBSの名プロデューサー出口一雄は正蔵を評価し、専属にもしています。

    馬生は死ぬのが早過ぎました。54歳でしたからね。せめて70代まで生きていてくれれば、正当な評価を得られたのにと思います。
    でも、残っている音源を聴くと、しみじみいいんですよ。今の若い人にも響くんじゃないですかね。
    小さんが馬生に会長を譲らなかったわけは、私には分かりません。まあ小さんも70になったばかりで元気でしたから勇退には早いと思ったのかもしれません。小さんの次に会長になった圓歌も、志ん朝に譲らないまま志ん朝が死んでしまいましたから、元気なうちに会長の座を譲るのはなかなか難しいのかもしれませんね。

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  19. この本を初めて読みましたが、圓丈さんの御乱心では見えなかった圓生さんの本音が分かって少し驚きました。
    一つは川柳さんを圓窓さん達の後に真打にしておけばよかったという後悔と、
    もう一つは、本当は落語協会に戻りたかった(かもしれない)ということの二つですね。

    圓生さんはなんだかんだ言って川柳さんを認めていたけど、色物は真打にするべきでないという自分の信念に反する事になるから真打昇進を素直に祝えなかった気持ちが強かったんでしょうね。
    一柳さんと生之助さんに関しては、本当に真打としての実力が当時はまだ足りなくて反対していたんでしょうけど。

    後はやっぱり志ん朝さんの説得でメンツが大事だと言って戻る考えをバッサリ切り捨てたと御乱心には書いてありましたが、この本では少し違いました。
    協会に戻っても自分は生きている間は良いけど、死んだ後に大量真打が始まると見据えていたから、戻らなかったと理由がはっきりと書かれていました。
    多分、どうあがいても圓生さん及び圓生一門は落語協会をやめる運命には違いなかったんでしょうね。

    仮に協会に戻ってきたとしても、圓生さんは落語家をやめてたんじゃないかって思うんですよ。
    あれほど落語が好きな人が落語界を良くしたいと最善策を出したのにそれを否定されるわけですから、その上で協会に戻ってこいって言われるわけですから。
    多分落語が嫌いになる程の自暴自棄に陥って、「真打昇進も芸も勝手にしろ、私は知らん」ってなって落語家圓生は生きながら死んでいたと思います。
    落語を辞めた圓生の弟子達は師匠をどう思うか分かりませんけど。

    本当に難しいですよね、この問題は。
    ただ協会という組織を長持ちさせるなら大量真打は正解だと思いますけど、お金を払って見に来てくれる御客さんを満足させたいと考えるなら大量真打は………あくまで自分の考えですけどね。

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  20. 分裂騒動の後、協会は「真打試験」なるものを始め、やがてこれも頓挫してしまいました。
    現在は年功真打と抜擢真打を併用しバランスを取っています。これがいちばん穏当なやり方だと思います。
    実力主義は一見明解に見えて、基準が難しいので。ましてや芸に関しては絶対的な尺度は存在しないと思います。

    圓生は落語の名人だとは思います。後進の育成でも勉強会を開くなど熱心でしたが、あまりに自分の好みに偏っていたのではないかと思いますね。(「信念を貫いた」といえばそうでしょうが)
    「自分の好みではないが評価する」とか、「自分には理解できなくても他者の意見を聞いてみる」とか、もう少し懐が深かったらなあ。あれだけの大名人だったのに。
    でも、私にも「譲れないもの」はありますからね。圓生の気持ちも理解できます。

    ちなみに一柳になった好生は、10人真打の打診を受けて「いつか一人で真打ちになりたい」と言って断り、かえって圓生の不興を買いました。つくづくかわいそうな人だと思います。

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  21. ≫実力主義は一見明解に見えて、基準が難しいので。ましてや芸に関しては絶対的な尺度は存在しないと思います。

    上手いと評価はされますし、従来型の芸ではなく、一般の基準では下手でも、
    寄席への観客動員があると評価もされます。(三平 歌奴等はこのパターン
    だったと思います。)
    何かで読みましたが、席亭が三平 歌奴が面白く観客動員があると真打昇進を勧めると、
    文楽はその話に乗ったが、圓生は「面白い事は認めるが、あれは落語ではなく色物」という
    思いがあったのだと思います。それが「三平の芸は草花」という評価だったのだと思います。
    それが圓生の「譲れないもの」だったのかもしれません。

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  22. 真打昇進問題で試験を辞めた切欠は、
    林家こぶ平(現正蔵)が合格し
    古今亭志ん八(後の右朝)が不合格になって、
    席亭がこれに異を唱え、志ん八の披露はやりますと云った事で
    従来の抜擢と年功序列の形に戻ったという事を聞いた事があります。

    落語家の人数が少なかった時代でも
    古今亭圓菊師は志ん生師が「あいつは良く世話をしてくれるから」という推薦で真打に成ったが、
    扱いは二つ目だった、でもそこから圓菊落語を創り上げた、「あれで奴は飛躍したんだよ」と
    末廣亭の席亭が云っていたのも聞いた事があります。

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  23. 真打試験はもともと全員合格を前提に始まったものでしたが、そんな試験があるのかという批判を受けて不合格者を出すようになったといいます。
    試験の選考をした理事会で欠席したのが志ん朝と談志。で、落ちたのが志ん朝の弟子の志ん八、談志の弟子の寸志(現談四楼)と小談志(後の喜久亭寿楽)。これに談志はキレて協会を辞めました。
    現正蔵は小三治が昇進を推してくれたと繰り返し言っています。
    ここまでくるとよく分かんないですよ。
    圓生だって真打になった時分はセコだったというし、大量真打からだって馬風なんか売れて会長になっていますからね。
    ある程度のキャリアになったら真打にしてチャンスを与える。これはという人を抜擢して二つ目で頑張っている者の励みにする。年功と抜擢の併用がやはりいいと思いますね。ベストではないがベターではあるでしょう。

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