先日記事にした、大洗磯前神社の八朔祭で活躍する、茨城町網掛の神明雷神社と宮ケ崎の鹿島神社を紹介しよう。
まずは網掛の神明雷神社。
集落にある小高い丘の上に神社はある。 |
境内はきれいに整備されているが、案内板などは一切ない。 |
涸沼を見下ろす。 |
この階段を上る。ロケーションとしては大洗磯前神社に似ているか。 |
お次は宮ケ崎の鹿島神社。網掛からはわずか数百メートルの所にある。
一の鳥居。 |
二の鳥居。 |
拝殿。 |
本殿。 |
昭和56年、拝殿屋根替の時に建てられた石碑。 |
こちらは明治33年の神社改修の時に作られた石碑。 |
この長い参道を見よ。 |
鹿島神社の方には境内に石碑があり、故事来歴を丁寧に解説してくれている。
創建は大同2年。鹿島神宮より分霊を迎え近隣七ケ邑の村社とした。大洗磯前神社の末社といわれているが、これを読むとまさしく鹿島神宮の流れをくむ神社であることが分かる。
八朔祭については以下のように書かれている。
「往古より斎行いたしおります大洗神社へ渡御の八朔祭の御儀は年代不詳なるも鹿島神宮より海路渡御せるも道遼遠にして且又風雨にと遭へ困難を窮めしこと屢々にして當神社に代行せられ現今名のみ残す」
八朔祭は「出雲の国譲り」を模した祭事である。では、なぜ出雲から遠く離れたこの地で、それが行なわれているのだろう。
ここで私はこの常陸国が、かつて朝廷による陸奥征服の最前線基地であったことに思いつく。鹿島の神は出雲国譲り神話の主役である武神だ。鹿島神宮の拝殿本殿は、他の神社と違って北を向いて建てられており、それも陸奥へのにらみを利かせる意味合いがあるという。
もしかしたら、国譲りの神事は、陸奥征伐のためのものではなかったか。もっと踏み込んで言えば、この神事のために大国主神を祀る大洗磯前神社は建てられたのではないか。
あくまで私の妄想に過ぎない。でも、こういう妄想をふくらませるのは楽しい。
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