文楽の二人目の妻は、日本橋近くの江戸橋にあった丸勘という土蔵造りの旅館の女主人だった。名前を鵜飼富貴といい、文楽はこの家に婿に入り、鵜飼益義となった。大正8年(1919年)のことである。
結婚の経緯は前回述べた通り。
圓蔵師匠は弟子入りをする時、この丸勘に行った。入門が許され、桂文雀の名前をもらう。圓蔵師匠は、このおかみさんについて、このように語っている。
《太ったお神さんでねェ、芸人が惚れるようなタイプじゃないね、あれは。真打昇進で金が要るんで一緒になったんでね、もうその頃は横浜の芸者屋の姐さんとできてたんだから》
雷門福助はこう言う。
おかみさんが、スッスースッスー前を歩いているやつを、文楽師匠がうしろからついていってねェ、「おい福ちゃん、見ろよ、あのレキを俺がうかがうんだが、お前たいへんだよ」ッていったほど、こんなに太ったおかみさん。
愛はなかったんだろうね。『あばらかべっそん』には、この時期の、何人もの女との「色ざんげ」が書かれている。
そんな風だから、いずれ別れが来る。
大正12年9月1日、いよいよ別れ話になって関係者が集まるというので、文雀(圓蔵師匠)は「今日は忙しいから、寄席に行くまで芝居でも観ておいで」と言われて浅草に行った。
芝居を観ている最中に大地震が襲った。関東大震災である。やっとのことで二日後に丸勘にたどり着くと、旅館は丸焼けになっていた。焼け跡に木の札が立っていて、「文雀に告ぐ。富岳に居る 文楽」と書いてあった。富岳は青山にあった三流の寄席。そこで文楽一家が避難していた。
そこからおかみさんの親戚を頼って新宿の柏木へ移る。東中野の隣。小満んが「中野」と言っているのはここだろう。近くの川で師匠の体を洗う。圓蔵師匠はこの時の印象をこう語る。
《石の上に腰掛けてもらって、師匠の背中を流したんです。若い頃の家の師匠ッてもンは綺麗な身体ァしてましたね》
東京に戻ると、予想通り師匠文楽は北海道の巡業に出ていた。文雀は神田白梅亭の席亭が経営している道灌山の白梅園という全室離れの連れ込み旅館に身を寄せた。大師匠五代目左楽一門がここに避難していたのである。
《ここへお神さんが会いに来ましたよ。浴衣ァ着て、蛇の目の傘さして、左楽さんから「北海道へ行ってると言っちゃいけない」って言われてたから、「知らない」って返辞をしたんですが、うしろ姿を見ると、肩ァ落としちゃって、本当に淋しそうでしたね。師匠も罪作りなことをしたもんですよ》
ある意味桂文楽って志ん生よりも破天荒かも知れませんねwあの時代の名人は大概がスケベだったんでしょうか?
返信削除志ん生は結婚は一度しかしていません。若い頃は売れていなかったし、ご婦人にももてなかったでしょうし。売れてから脇に女ができた、ということはあったらしいですが、おかみさんや家族は大事にしていたようです。文楽よりその点では固いと思います。
返信削除文楽の女性関係は破天荒ですよ。真打昇進の頃から売れっ子になって、モテモテだったようです。ご婦人が好きで、医者や床屋も女性を好んだそうです。
圓生も女好きだったし、芸人はそうでなくっちゃあ色気がでないんじゃないでしょうかね。