2021年10月2日土曜日

志ん朝忌

昨日は台風の影響で一日大荒れの天気だった。一応、定時まで職場にいたが、帰りに海を見るとすごい波だった。

そして、2021年10月1日は、古今亭志ん朝の20回目の命日。あれから20年経つんだなあ。

当時の手帳を見ると、あの年(2001年)の4月4日に、私は池袋演芸場で志ん朝を観ている。

記録を基にその日のことを振り返ってみる。


その日は平日だったが、休暇をもらっていた。古今亭志ん朝が池袋演芸場でトリを取ることが分かっていたので、それを見に行くつもりだった。

妻は翌週に出産のため実家に行くことになっていた。天気が良かったので、昼前に妻と出掛け、桜の花を見て回った。途中、杏子亭(今はない)というケーキ屋に寄ってお茶を飲み、ケーキを買って来た。

昼は高菜チャーハンを作って食べた。

テレビで春の選抜高校野球大会の決勝戦を観た。常総学院の優勝を見届け、妻と買って来たケーキを食べ、そして私は池袋演芸場へ向かったのだ。

5時半に入場。既に満席で補助の折りたたみ椅子が出ていた。何とか空席を見つけて座った。その時には、古今亭志ん馬(故人・2013年没)が『ん廻し』を演っていた。

志ん朝までの出演者と演目を次に記す。

林家たい平『紙屑屋』、アサダ二世「奇術」、古今亭志ん橋『花見酒』、古今亭志ん五(故人・2010年没)『鈴ヶ森』、太田家元九郎(故人・2014年没)「津軽三味線」、古今亭志ん駒(故人・2018年没)『杉良太郎の話』~中入り~三遊亭歌之介(現圓歌)「漫談」、柳家権太楼『悋気の独楽』、和楽社中(翁家和楽・故人・2014年没)「太神楽」。

たい平の『紙屑屋』が、噺の途中で『湯屋番』が混じってしまい、客席は大受けとなった。志ん五の芸が大きくなっていた。もう飛び道具のような与太郎を看板としなくてもよい、本格派としての風格が身に付いていた。

古今亭志ん朝はトリで『船徳』。メモを見ると「途中とちりそうになったがまずまず」と書いてある。数年来、志ん朝はげっそりと痩せていた。声量が落ち、さすがに全盛期の勢いは感じられなくなっていた。でも人物や物事のとらえ方には深い味わいがあった。圧倒的で華麗な志ん朝から、積み重ねてきた人生をしみじみと感じさせる志ん朝へ、モデルチェンジしているように、私には思えた。『船徳』でも、やんちゃな若旦那を見つめる、おかみや竹屋のおじさんや客の方に志ん朝がいた。

と、ここまで書いて思う。正直に言えば、私はこの時の志ん朝の高座に、衰えを感じていたのだ。そして、それは63歳という年齢にしては早過ぎるものだった。

帰りは12時近くになっていた。コンビニで買って来たねぎとろ巻きでビールを飲んでクールダウンして寝た。


6月末に長男が生まれた。8月には妻と息子が実家から帰って来た。そして、初めての子育てという奮闘が始まった。

志ん朝は、8月の浅草演芸ホール、恒例の「住吉踊り」に出演後、入院した。新聞記事によると「糖尿病の治療のため」とあった。「体もガタがきているので、これを機会にちゃんと治そうと思います」というような本人の談話も載っていた。

私もそのつもりでいた。いずれ元気になった志ん朝の高座を楽しむことができる、と素直に信じていた。

立川談志は、「志ん朝入院」の報を聞いて、「癌じゃねえだろうな」と言ったという。

悲しいことに、この談志の予感通りになってしまった。

10月1日、志ん朝の訃報が全国を駆け巡った。末期の肝臓がんだった。雨が降っていたような記憶があって、ネットで調べたら、やはりその日東京地方は一日中雨だった。最高気温19.4℃、最低気温16.8℃。ほとんど気温は上がらず、肌寒い一日だった。言いようのない喪失感が私を襲った。



そして、20年後の昨日も、一日中雨の肌寒い日だった。

5 件のコメント:

  1. このブログで思い出しました。ありがとうございます。20年経つと忘れてしまうのですね。
    2001年4月の池袋は7日通ったので、この船徳も聴いています。他には一度限りの愛宕山が鮮明に記憶に残っています。また、誰かの代演で、この4月末に亡くなる右朝師ののっぺらぼうを聴きました。
    仮に長生きしたとして80歳になった志ん朝師を聴きたいか、というと迷います。この時に亡くなるのが天命だったのかなあ、と思います。

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  2. コメントありがとうございます。

    あの芝居で『愛宕山』も出たんですね。4月だし、いいネタです。あの噺は体力を使うので、きつかったとは思いますが、演りたかったんでしょうね。
    右朝の噺も聴けたんですか。うらやましいな。前の年の暮れに声が出なくなって休演していたんですよね。確か肺がんだったと思います。右朝の骨上げをして来た川柳川柳が、べろべろに酔っ払って浅草演芸ホールの高座に上がったのを観ました。ブログで「川柳川柳の伝説」という記事にしてあるので、よろしかったらお読みください。

    「男の花道」なんかを聴くと、老境の志ん朝もいいなと思ったりもします。でも、もう詮無いことですね。私としては中学生の頃に志ん朝に出会い、ずーっと楽しませてもらい、幸せでした。

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  3. 訂正。
    「男の花道」× → 〇「男の勲章」
    別名「山田吾一」でした。すみませんでした。

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  4. 川柳師匠は右朝師を買っていたのですね。胸に詰まるものがあります。幸い私は川柳師の酷い高座には当たらず、絶好調のガーコンでひっくり返ったことがよい思い出です。小三治師がトリで、マクラでいじっていましたけれども。
    あの4月の志ん朝師は比較的体調も良かったのでは、と思います。10日間完走だったようですし、初日の「お見立て」には、落語に詳しくない連れも爆笑していました。それが半年後に逝ってしまうとは。

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  5. 右朝は『ガ―コン』も演っています。YouTubeで聴けます。達者ですね。
    志ん朝の『お見立て』も好きです。前年の池袋では、マクラで昭和の吉原の様子を語っていました。これがいいんですよ。楽しんで高座を務めている感じがしました。

    志ん朝は本当に急に逝ってしまいました。あの時は、不意打ちを食らったようなショックでした。

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