2022年10月1日土曜日

北海道からの海の幸、円楽が逝った

昨日、北海道の海の幸が届いた。今回は秋刀魚をたくさんいただいた。

早速、八海くんに電話をする。

「いやあ、孫が生まれたんであれこれ選んでいる余裕がなくて、今回は秋刀魚だけだ」とのこと。6月に娘さんが出産したのだという。

「目の中に入れても痛くない、っていうけど本当だな。本当にかわいい」と、もはやおじいちゃんはメロメロだ。

いずれ引退をしたら娘さんの暮らす横浜に出てくるつもりだ、と言う。

「横浜に寄席があるんだって?」と八海くんが訊く。

「にぎわい座。小文治さんも出るらしいよ」

「そこでアルバイトをしながら余生を送るというのはどうだ」

「おっ、いいな、それ」

などという話をして、お互いの健康を祈って電話を切った。 


六代目三遊亭円楽師が亡くなった。72歳、肺がんだったという。

1981年、楽太郎のまま真打昇進。六代目三遊亭圓生一門が落語協会を脱退し、圓生死後、直弟子たちは協会に復帰したが、五代目圓楽一門はそのまま独自の道を歩いていた。だから、楽太郎の落語を寄席で聴くことはできなかった。しかし、その才気あふれる芸は、我々落研部員も注目をしていた。

当時聴いた噺では『道具や』が思い出深い。ここで楽太郎は「知的な与太郎」という新機軸を打ち出した。

「そこを行って、ぶつかって右だよ」「ぶつかって右、ぶつかって右、どしーん、ぶつかって右」「ほんとにぶつかりやがった」というギャグは秀逸だったな。

彼が笑点メンバーになったのは、1977年、二つ目で楽太郎を名乗っていた27歳の時だった。

「笑点メンバー」を落語家としてのステイタスシンボルにしたのは、この六代目円楽と桂歌丸だったように思う。彼らは「笑点」という看板をとても大切にした。それは一般的に知名度の低い芸術協会や、寄席に出演しない圓楽一門会の落語家にとっては、極めて有効なカードだった。笑点メンバーをセットにした落語会は全国で開かれ、それは彼らの落語家としての評価を、幅広い層の人々へ定着させるのに大いに貢献した。私が地元で彼の落語を聴いたのも、当時は木久蔵だった林家木久扇との二人会だった。

それから円楽は「博多・天神落語まつり」などのプロデューサーとしても活躍。異なる団体の落語家のつなぎ役として手腕を発揮した。これは特筆されるべき彼の功績だったと思う。

また、歌丸との信頼関係をもとに、圓楽一門会の落語家が芸術協会興行の寄席に出演できるようになったのも大きい。

落語界全体のために汗をかいた落語家、それが六代目三遊亭円楽だった。

晩年は七代目三遊亭圓生襲名に執念を見せた。圓生という名前をどうしてもまた世に出したい、という思いは、やはり三遊亭本流としての矜持がそうさせたのだろう。ただ、鳳楽・圓窓・圓丈の圓生襲名争いがあり、円楽が圓生襲名を目指せる状況になった頃には70歳近くになっていた。肺がん、脳腫瘍、脳梗塞と次々と病魔が襲い、その度に復帰を果たしたが、肺がんに倒れた。軽い肺炎を起こし入院したが、急に容態を悪化させたのだという。無念の死だったと思う。

先代のような押しの強さはなかったが、それがかえって私には好感が持てた。洗練されていて、それでいて男っぽい語り口。達者な人だった。

六代目三遊亭円楽師匠のご冥福を祈る。

自分が青春時代、若手だった人の死は、やはり寂しい。


ちょっと前の夕焼け。

4 件のコメント:

  1. 圓楽師、圓窓師と逝きましたが、何とも言えない気持ちです。瓦解していく圓生一門を何とか支えてきた方たち、という感じでしょうか。圓窓師は、池袋西武でやっていたスタジオ500噺の会に学生時代に何回か行きました。とても爽やかで面白かったのですが、後年変に理屈っぽく臭くなって、ほとんど聴かなくなったのが残念です。圓楽師(というより楽太郎師ですが)、こちらもほとんど聴いたことがなく、若竹でざこば師との二人会で聴いたくらい。しかも、ざこば師のネタは、崇徳院と青菜ではっきり覚えているのに、楽太郎師が何をやったか思い出せません。一般的には売れていたのでしょうから、別に私が聴かなくてもいいわけですが。

    三遊亭一門の現在、結局は圓生という人の人望のなさが現在まで響いているような気もします。圓橘、好楽両師は気を吐いていますが、小圓朝、正蔵門下であって、そもそも圓生一門とは言えないでしょうし。いささか厳しすぎるでしょうか。

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  2. 圓窓の高座は確かに理屈っぽかったですね。上手いんだけど、聴いていて楽しくなかった。寄席の流れの中で見ても、地味な存在になっていました。かつては小三治のライバルだったし、1980年代の東京落語四天王に志ん朝・談志・圓楽・圓鏡の名前が挙げられた時、「圓鏡じゃなくて、小三治か圓窓ではないか」という声があったくらい評価が高かったのに。そのうち寄席にもあまり出なくなってしまったように思います。
    楽太郎の円楽は、地元のホールで3回見ています。「町内の若い衆」「短命」「禁酒番屋」、どれも下ネタがかっているんですよね。「行く先々の水に合わせて」のネタだったんでしょうけど、もう少し気合を入れて欲しかったなあと思います。
    圓生一門瓦解には、惣領弟子の五代目圓楽も大きな責任があると思います。分裂騒動時や圓生死後の彼の振る舞いはあまり賛同できるものではありませんでした。その後始末を六代目が必死にやっていたように思えてなりません。圓生襲名もその延長上にあったものなのでしょう。でも、圓生を継げる人、こんな状況で出てくるんでしょうかね。

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  3. 圓窓師は「粗忽の使者」で大爆笑したこともあるのですが(これも生で聴いた志ん朝師に劣らない、と思います)、後年落語研究会で聴いた「鰍沢」は、落げを改変して夢落ちにしてしまって、なんだこりゃ、と思った覚えがあります。それ以降実際に全く聴かなくなりました。楽太郎師は、プロデューサーとしての力はあったのでしょうが、私にはピンときませんでした。結局「笑点」なるものへの嫌悪感が強い、ということなのですが(なお、小遊三、昇太は嫌いではありません)。

    先代圓楽師、どこかで間違っちゃったんですね。小さん師匠が元気なうちに協会に戻るべきだったと思いますが(川戸氏の著作によれば、そういう話があったと認識しています)。若竹にも何回か行ったので、決してネガティブには見ていないのですが、実際の高座は、残念ながら決してレベルの高いものではなかった、と思います。放送録音は良い出来のものもあるのですが。

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  4. 昭和50年代の落語雑誌を見ても、圓窓はサゲをいじりたがる人だったようです。「旦那の頭もゴマ塩ですから」とか「お材木のおかげで助かった」とか、変えたかったんでしょうね。私は「サゲは噺の終わりの合図」と割り切っているので、名作のサゲは、くだらないものであっても変えなくてよい、というスタンスでいます。もちろん「変える」ことは否定しませんし、そうすることで新たな生命が生まれることもあると思います。圓窓は変えずにはいられなかった。これも落語家としての業なのかもしれません。ただ、彼は噺の解釈とか登場人物の掘り下げに向かっては行かなかったのではないか。、圓窓も三遊派的な「型の人」だったのかもしれません。この辺りはもう少し、じっくり考えたいと思います。
    「笑点なるものへの嫌悪」、分かりますよ。先日、円楽の追悼特集を途中から見ました。心は揺さぶられましたが、あの番組全体の「笑点メンバーへの権威付け」にはちょっと違和感を感じました。一般の人が、三三や菊之丞なんかに「笑点メンバーになれるよう修業してくださいね」と言いかねない雰囲気が醸成されてもおかしくない感じがします。
    私が学生時代、落研部員の中では先代圓楽の評価はそれほど高いものではありませんでした。「藪入り」とか「芝浜」で、演じながら感極まったのか本当に泣く場面を見ながら、「噺家が高座で泣くもんじゃねえ」と言い合っていました。ただ、落語をあまり聞いたことのない演劇好きの人なんかは圓楽の落語が響くようです。知り合いに何枚かCDを貸したところ、「志ん朝さんが上手いのは分かるけど、私は圓楽さんの方が好きだな」と言われました。新鮮に感じましたね。

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