前回載せた七代目橘家圓太郎について、『正蔵一代』の方にも書いてあった。
こちらの方が分かりやすいので、それを基にまとめておこう。
もともと圓太郎は橘ノ圓の弟子で百圓といっていたが、師匠が京都で水害に遭って亡くなり東京に戻って馬楽時代の正蔵の内輪になった。
百圓は「弟子にしてくれ」と言ったらしいが、正蔵が「おれは弟子はとらないから、兄弟でもっていこうじゃねえか」と答えて、「内輪」ということになったという。
一方百圓は、作家、正岡容と親しくなる。正蔵は圓太郎襲名のいきさつについて、「正岡さんは、だれでも弟子だ弟子だって言ってた人だけれど、これもおれンとこの弟子だって、そう言って、それでまァ圓太郎を継がせた」と書いている。
正岡は1941年(昭和16年)、「ラッパの圓太郎」と呼ばれた四代目圓太郎をモデルにした『圓太郎馬車』という小説を上梓している。これは古川ロッパの一座で芝居にもなったというから評判もとったのだろう。「橘家圓太郎」という名前を正岡が差配できたのは、そういうところからだったんだろうな。
圓太郎の文楽入門について、正蔵は次のように書いている。
そんなわけで、あたしのとこの内輪みたいなかっこうでいたわけですが、いつだったか、
「文楽さんのところィ行きてえ」
じゃァてんで、一ぺん文楽さんのところへ行きましたよ。そしたら、あんまりやかましいんで、彼奴ァノイローゼみたいになっちまいやがって、それからずゥッと変なままなんだけど・・・また、うちィ引きとることになって、今日に至ってるんです。
そうか、圓太郎が自分から「文楽の弟子になりたい」と言ったのか。
前回の日記を見ても、正蔵は、圓太郎が文楽の身内になれるよう、実に親身になって働いている。おかげで正岡容といさかいを起こすことになってしまってもだ。
そうまでしてやって文楽の所に行かせた圓太郎は、あっさりと正蔵のもとへ舞い戻った。そして、それを何のこだわりもなく迎え入れる。正蔵という人は、本当に懐が深いなあ。
付記。
正岡容の『寄席囃子 正岡容寄席随筆集』(河出文庫)を見たら、「圓太郎代々」という文章の中に、以下のような一節があった。
私に
南瓜咲くや圓太郎いまだ病みしまま
の句がある。去年昭和十七年の春、七代目橘家圓太郎を私たちが襲名させ、たった二へん高座から喇叭を吹かせたままでいまだ患いついてしまっている壮年の落語家を思っての詠である。
これは前回の正蔵の日記のこの部分を指してのものではないか。
一日から出番があるのに円太郎が出演しないので不思議に思ってゐると、正岡さんの打った電報の返電にアタマガオカシイ。としてあったそうだ。原因はなんだか。どんな様子だか目下のところ私の所では皆無わからない。(S18・5・4)
とすれば、圓太郎はその後1年ぐらい復帰できなかったことになる。ただ、これは昭和18年の記事だ。でも正岡は「去年昭和十七年」と書いている。正蔵の昭和17年の日記を読み返しても、それらしいことは書いていない。正岡さん、年号間違えたかな。(私もよく間違うけれど)
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