八代目桂文楽には、入門した師、初代桂小南、芸の上での師、三代目三遊亭圓馬、人生の師、五代目柳亭左楽がいるが、実はもう一人師匠がいる。
それは、八代目桂文治。本名、山路梅吉。明治16年(1883年)1月21日生まれ、昭和30年(1955年)5月20日没。享年72歳。
著書『あばらかべっそん』で八代目桂文楽は彼との縁をこう語っている。
「久し振りに東京へかえると、大阪から桂才賀改め翁家さん馬師がかえって来ていて、大した人気です。このさん馬師が先年なくなった八代目の文治師匠です。私はこの文治師の弟子になって、翁家さん生の名をもらいました。」
文楽がさん馬門下になったのは大正5年(1916年)、翌年には翁家馬之助の名で真打昇進が決まった。
しかし、その年、東京寄席演芸会社設立に伴い、反対派が睦会を結成、東京落語界は大きく二分されることになった。さん馬は睦会に参加することを約束しながら、それを反故にして会社に残留する。若かった文楽はそれを許せず、さん馬門下を飛び出し、睦会の副会長、五代目柳亭左楽の下に走った。左楽は文楽を睦会で翁家馬之助として真打に昇進させた。「翁家」のままで文楽を身内にしたところに、左楽の懐の深さが見て取れる。
文楽の、さん馬門下から左楽門下への移籍のいきさつは以上の通りだが、もともと文楽は、このさん馬とウマが合わなかったらしい。
文楽は『落語藝談』という本の中で暉峻康隆相手に「あたくしのほうで嫌いになったわけです」と断言している。
理由としていくつかエピソードが紹介されている。曰く、文楽が持っていった手土産を子どもにやらず独り占めしてしまう。曰く、噺の欠点(鼻をくしゃくしゃする癖、突然突拍子もない声を出す、かと思うとお客に聞こえないような声でしゃべる等)を指摘されると「そういうところがわからない人は落語を聞く資格がない」とつっぱねる。曰く、弟子相手のお遊びの博打でいかさまをする。文楽の言を信じれば、はっきり言って、ケチで偏屈でセコい人柄だったのだろう。
以後文楽は五代目左楽を終生「人生の師」と呼ぶことになる。
一方、さん馬は大正11年(1923年)、八代目桂文治を襲名、東京落語界を代表する一人となった。
五代目柳家小さんは、『芸談・食談・粋談』の中で「昭和の名人」として、まっ先にこの文治を挙げる。対談相手の興津要が「たいへんにくさかったけれども」と水を向けると、小さんは「だけど、あれだけくさくやれるってえことはたいへんですよ」と切り返している。
文楽は、前述の『落語藝談』で、「それで腕は立派なんです。それでね、その時分に独演会をすることになったら、あのくらい打ってつけの人はいなかったです。とにかくふつうの落語がいけて、人情咄がいけて、それから芝居咄がいける。この三席でもう立派なもんですよ。これがほんとうの独演会ですよ。その時分の」と言っている。文楽も文治の芸は認めていたのだ。芸の幅が広いとはいえない文楽の言葉に、ひどく説得力がある。
文治の芸をもっともよく伝えているのは、Super文庫『落語名人大全』収録の榎本滋民による解説だろう。次に全文を引用する。
母親が連れ子をして六代目文治の後妻になった縁があるにしても、落語史上に輝く大名跡をつぎ、桂派の宗家となって家元と尊称を奉られ、昭和二十二年という終戦直後の複雑微妙な芸能界再編成期に、落語協会の会長に推された人物が、凡庸であるはずがない。
枕から本題にかかるあたりで過度に音量を低め、登場人物の喜怒哀楽には奇声を発し、落ちを念入りに押すようにつける語り口に寄せられた、納まり返った名人きどりが鼻につく、あくと粘りが強くてもたれるといった批評は、全く不当とはいえないまでも、謙虚な姿勢と淡白な演出を過大評価した時代風潮の影響も、認めないわけには行かないだろう。
祇園囃子をまじえて江戸・京都・大阪三都のことばを鮮やかに使い分ける『祇園会』の話術の確かさ、義太夫語りだった前身につちかわれた『夜桜(義太夫息子)』の風味の奥行きは、由緒ある桂文治の資格にかなう、まぎれもない大看板のものであった。
昭和26年に東京新聞社から出た『藝談』では、初代中村吉右衛門、徳川無声、長谷川一夫などの名優、スターが登場する中、落語界からは文楽と古今亭志ん生が選ばれている。この二人が当時の落語界の双璧だったことがうかがえる。電通の社員だった小山観翁は、当時文楽・志ん生が9000円のギャラをもらっていたのに対し、文治は若手だった小さんと同ランクの5000円だったと言う。『藝談』で文楽は「落語協会副会長」と紹介されている。
昭和22年(1947年)、四代目柳家小さん急死の後を受けて、落語協会会長に就任して以来、文治は、自らの死までの8年間、会長であり続けた。
晩年は寄席でも重用されず不遇だった。その文治よりも、文楽の方に力があったと見るのが自然であろう。協会運営における実権は副会長の文楽にあったのではないかと、私は思う。文治の死後、会長の座に就いたのは、八代目桂文楽であった。
八代目桂文治。本名から「山路の文治」と呼ばれた。住まいから「根岸の師匠」とも。四代目小さんがつけた「写真の原板」「茄子」というあだ名も残っている(文治は色黒で顔が長かった)。他に「会長」「家元」という尊称もあった。
こんなに多くの呼び名がある落語家を、私は他に知らない。
出囃子は「木賊刈り」。「家元」で「木賊刈り」と言えば、立川談志を思い出す。余談だが、談志も後輩落語家相手に麻雀でいかさまをやっていたと金原亭伯楽が書いていた。
談志が出した『談志絶倒・昭和落語家伝』という本の中に、田島勤之助が撮影した、死ぬ前の年の文治の写真が載っている。とても味わい深い、いい顔をしている。談志の文章も(余計な自慢めいたものが入るものの)愛情がこもっていてなかなかいい。
談志の『ゆめの寄席』というCD集に、文治の『夜桜』が入っている。何度聴いても私にはなじめない。だけど、貴重な音源を世に出してくれた談志には、深く感謝したいと思う。
いいですねー!
返信削除山路の文治について芸談本や聞き書きがあるのか分かりませんが、どういう路を辿ってきた人だったのか知りたい欲望があります。
小さん師匠も田島さんも名人だと仰っていながら、裏では子供を別な部屋に押し込んで、夫婦2人だけですき焼きして牛肉美味そうに食べてたとか結構酷いエピソードもあるようですし 笑
黒門町もあまり語ってないようですが、戦後何年間は落語協会同士で楽屋で膝並べたりしてたんでしょうから
どういう気持ちだったのかなぁなんて気にはなりますね。
東京大空襲で貞山会長が亡くなった後、落語協会HPでは、文楽が暫定の会長に就いたとあります。
返信削除ただ、『八代目林家正蔵戦中日記』では、貞山の死の直後は文治が首班になっていたように読めるんですよね。多分、その後人望のある文楽の方に実権が移ったのではないか、と私は見ているんですが、ゆうさんはどうお思いになりますか?
四代目小さんの後だって、貞山の後の暫定会長が文楽だったら、文楽が会長になるのが自然だと思います。だけど、文楽は敵を作らない人なので、その時は「文治さんに」と言って譲ったのではないでしょうか。
芸の評価という点では、戦後には勝負がついてしまっているので、黒門町は余裕をもって文治を立てていたと思いますよ。
彦六師匠の実感として、かつ、実際浅い時間にしか出されなくなってきた
返信削除という事実からも自然と文楽さんに実権が移っていったのでしょうかね?
文治を立てていたというdensukeさんの意見に大いに頷けます。
モテる人ってやっぱり器が大きいといいますか、あらゆる面でBIGですね文楽さんは。
黒門町は「努力の人」なので、左楽の背中を見ながら頑張って器を大きくしていったのだと思います。
返信削除もしかしたら正蔵の日記に「暫定的に文楽師匠が会長に就く」なんていう記述があったりして。「八代目林家正蔵戦後日記」、早く出してもらいたいものです。