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2018年12月29日土曜日

ちょっとだけ高浜散歩

朝、納豆餅、味噌汁。
妻は仕事。本棚の整理をする。
ミー太郎と遊びながら、村上春樹『騎士団長殺し』をとろとろ読む。
昼はチャーハンを作って子どもたちと食べる。
午後は長男の友だちが遊びに来る。
2時頃、妻が帰る。
ちょっと外に出る。高浜の街を散歩。風が強く寒い。
















40分ぐらい歩き、途中ガソリンを入れて帰る。
夕方ビール。
夕食は刺身で酒。次男の誕生日のお祝いでケーキを食べる。

ミー太郎はずっと家の中に入って遊んでいた。
あんなに逃げ回っていたのに、けっこうぐいぐい来るようになったな。




2018年12月27日木曜日

㋑食堂 まるいの焼きそば


鉾田、㋑食堂、まるいの焼きそば。600円。
この店のオリジナルメニュー。肉野菜炒めのような味付けなのだが、そこはかとなくソースの香り。紅ショウガがよく合うんだな。味噌汁、小鉢、香の物が付いてこの値段はうれしい。旨いよ。絶対、ビールに合うと思う。
ではアップで。


ボリュームもあり、大満足の一品でした。

2018年12月25日火曜日

メリークリスマス


先日、仕事で鉾田に泊まる。
晩飯に一杯ひっかけようと思って街に出たが、適当な店が見当たらず、けっこう歩いた。商工会の見事なイルミネーションを見る。何かイベントをやっていたようだ。
昼食でよく利用した、天宝という中華料理屋に入る。冷奴、ゴマ手羽2本、白モツ炒め、ビールと酒2合で2250円。旨し。やっぱり困った時は町中華だな。

翌朝、早朝の鉾田を散歩する。白く光を失った月が、西の空に浮かぶ。








きりっと冷えた朝の空気が気持ちいい。

昨日は長男の習い事があったので、今日、家族でクリスマスパーティーをやる。
鶏モモの照り焼き、ピザ、生ハムのサラダ、ソーセージ、フライドポテトで赤ワイン。デザートは妻と次男で作った、苺とブルーベリーのタルト。もうお腹いっぱい。旨し。
食後、ミー太郎が家の中に入って来たので、膝にのせてまったりする。昨日から、突如、触らせてくれるようになったのだ。何かの加減でストッパーが外れたか。喉をごろごろ鳴らして甘える猫の感触は、久し振り。いいもんだねえ。


今年も色々あったけど、とりあえずメリークリスマス。
ジョン・レノンは「君は何をした?」と問いかけるけど、私は口ごもってしまうけど、とりあえずメリークリスマス。
メリークリスマス。

2018年12月22日土曜日

冬至 留守番の日

今日は長男が土曜講座。朝、駅まで送って行く。
帰りに恋瀬川の河口から朝焼けを見る。

恋瀬川の河口。

こちらは山王川の河口です。

朝食は、パン、わかめスープ、ハム、スクランブルエッグ。
妻もお出掛け。次男と二人でお留守番。
昼は、次男が蕎麦を食べたいというので、小月庵に行く。
次男は海老天盛り、私はカレー南蛮と半ライス。



御飯はカレー雑炊風にしていただく。

午後は年賀状の印刷。加川良のレコード、クラシックのCDを聴く。
おやつに妻が買って来たドーナツを食べる。
ミー太郎が最近、メスであること判明。でも私はそのままミー太郎と呼ぶ。芸者みたいでいいじゃん。この頃は近寄って来るようになったが、まだ触らせてはくれない。今日は一瞬だけリビングに上がって来た。


夕方ビール。
夕食は石狩鍋で燗酒。冬至なのでカボチャの煮物を食べる。
北海道の八海君から電話。20分ほど話す。
柚子湯に入って温まる。

2018年12月19日水曜日

山本祥三『東京風物画集』




山本祥三という名前を知ったのは、『画集・銀座のカラス』(沢野ひとし 本の雑誌社1995年刊)の沢野の文章によってである。
「銀座のカラス」は、椎名誠が朝日新聞に連載した小説。他の椎名作品同様、挿絵を沢野ひとしが担当した。その挿絵をまとめたのが、『画集・銀座のカラス』である。
この本で、椎名誠は「この十数年で沢野君の絵は随分変わった。とくにこの七~八年の変化は線がやさしくなり、描く人間や風景にどこか深い哀調が漂うようになってきた。」と書いている。
これには私も全くの同感で、沢野の描く、一見ラフな線で細かく描きこまれた東京の風景に、強く心惹かれたのだった。
そして、沢野のこんな文章にぶつかる。
「山本祥三という画家を知っている人が何人いるだろうか。彼は昭和三年、東京は深川に生まれ、昭和三十二年に二十九歳の若さで亡くなった。東京の下町から盛り場、名所旧跡まで、ぬくもりをもったペンや筆で描かれた東京の風景はかぎりなく優しい。
(中略)
モノクロで描かれた彼の絵を、ペンや筆で模写し、模倣することによって、僕の絵もこの数年大きく変わっていった。インパクトのある強い絵から叙情的な風景へ少しずつ変わっていったのは、山本祥三の絵の影響といっていい。」
こんなこと書かれると、どうしたって山本祥三の絵を見たくなるでしょう。
以来私の頭には、山本祥三と彼の唯一の画集『東京風物画集』が強く刻み付けられた。
ところが、この本になかなか巡り合えない。
アマゾンで本を買い始めた頃、一度注文にまでこぎつけたが、いざとなったら品切れで、買い物は成立しなかった。
それが最近、そのアマゾンで買えたのだ。『東京風物画集partⅠ』『東京風物画集partⅡ』ともに相次いで買えたのだ。ほぼ二十年越しの夢がかなったのだ。さすがアマゾン、恐るべし。
昭和56年に雪華社から出た初版本。ということは、沢野ひとしが持っていたのとまさに同じ本である。
年譜によると、山本が東京のスケッチを始めたのが昭和2910月。昭和3110月には、その絵と行動が朝日新聞に紹介され、同年同月に江東楽天地で路上展を開催。その時に木村荘八に激励され師弟関係を結んだ。引き続き、池袋西武デパートで展覧会を開き、翌月には早稲田大学文化祭に出品するも、昭和321月に持病の胃下垂が悪化。同年9月に入院。そして、1029日、胃下垂神経症による栄養失調で29歳の短い生涯を終えた。
この画集は、昭和38年に発行されたものを分冊にしたもの。昭和29年から昭和31年までの、167点の東京の風景が収められている。素朴で丁寧なタッチで描かれた、詩情あふれる作品の数々に圧倒される。
山本が師と仰ぐ、木村荘八の評を紹介する。
「(前略)その絵の仕事は、何といっても『出発』早々のことであるから、稚筆は免れない影に、早くも光鋒きらめき、『写実』の眼のよく届いた人で、太筆の素描(毛筆)と、細緻の(ペン画)を技法とし、何れかといえば細緻のペン画の素描に、鋭さが汲めて、色彩はまだ多く使うことをしなかった。黒白の調子は、その屢々『版画』に向く画式に、既に堂に入った出色があり、第一に僕が山本君に惹かれたのは、材料の着眼の、平板凡庸でないことだった。常に取材の急所々々緩急抑揚のカンがよく働いて、一つには同君が、一方、『詩人』だった感受性も助太刀したことだったろうか、それが若い人のまゝに、極めてたのもしい・好ましい感を受けたのだった。」(「まえがき・山本祥三の『東京スケッチ』」より)
もう何も足す言葉はない。
蛇足だが、巻末に収められている、日記やスケッチ・メモもいい。それはもはや一編の詩である。

実物も見てみたいなあ。笠間日動美術館あたりで特別展、やってくれませんかね。


2018年12月16日日曜日

楼外楼のサンマー麺 寒い週末

昨日の日記。
長男は土曜講座、次男は部活、妻は仕事。
朝いちで床屋。その足で、つくばのQ’tへ直しに出していた時計を取りに行く。
昼食はMOGの楼外楼。サンマー麺を食べる。ランチタイムは焼きそばが食べ放題。お茶もたっぷり。旨し。


食べ放題の上海風焼きそば。

サンマー麺。税込み950円。


デザート付き。

つくばの行き帰りに、石岡市三村辺りで写真を撮る。

シブい看板。


野の仏。二十三夜塔は寛政年間のもの。



1時過ぎ帰る。ごろごろしながら、リンダ・ロンシュタット、ドノバンのレコードを聴く。
ミニのスタッドレスタイヤを注文する。ついでにハートランドビールを買って来る。
お休みのお楽しみ、夕方ビール。ハートランドはつまみ無しでいける。
夕食はホットプレートを使った石焼ビビンバで燗酒。
寝酒にアイリッシュウィスキー。

今朝も寒い。


朝食はフレンチトースト。
妻子を連れてイーアスつくばに行く。妻とお互いのクリスマスプレゼントを買う。
私はスコッチのシングルモルト、ボウモアと小泉今日子のCDを買ってもらった。
昼はフードコートのマクドナルド。テリヤキチキンフィレオとベーコンレタスバーガー。
2時過ぎ帰ってお茶を飲み、灯油が切れていたので買いに行く。
夕方ビール。今日はサッポロ黒レベル。
夕食は芋煮鍋で燗酒。

ミー太郎が来て、ほぼひと月。相変わらず人の顔見ちゃあ鳴いているが、近づくと逃げる。それでも、この頃だいぶ距離は縮まってきた。警戒心は薄らいできたものの、まだまだ心は許してくれない。
妻も何かと猫の好きそうなおかずを買って来るようになった。「触らせてくれたらチュール買って来てあげるのに」と言ってるぞ、ミー太郎。




2018年12月14日金曜日

雷門福助の証言 睦会の芸人たち


この間、記事にした雷門福助の話が面白かったので、物置から川戸貞吉の『初代福助楽屋話』(2010年7月 冬青社刊)を持って来て読み直している。これが面白い。

雷門福助。本名川井初太郎。明治34年(1901年)1021日、本所深川の生まれ。陸軍大臣の運転手、活動弁士などを経て、六代目雷門助六に入門し福助を名乗る。二つ目昇進後は音曲師として活動する。昭和の初め頃、名古屋に住み着いた。戦後は宿屋の主人をしながら、名古屋在住の芸人団体「名古屋互助会」の会長を務め地元で活動していたが、昭和5812月に東宝名人会に出演したのがきっかけで、度々東京の高座に上がるようになり、「落語界のシーラカンス」と呼ばれ脚光を浴びた。昭和61年(1986年)611日、86歳で没。
東京時代は睦会に所属、八代目桂文楽のもとに稽古に通った。その人と芸に心酔し、終生
慕う。福助にとって文楽は、文楽にとっての三代目三遊亭圓馬のような存在だったのだろう。(『古今東西落語家事典』では、助六の弟子になったのが22歳頃としてあるので、大正11年頃の入門なのだろうが、著書では大正8年頃には文楽の所に出入りしていたというから、正確な入門時期はよく分からない。)

この本では大正から昭和初期にかけての貴重な証言が多い。今回は、笠間稲荷神社の奉納額にある、睦会の芸人たちの人物評を紹介しよう。


まずは睦会のボス、五代目柳亭左楽から。
「五代目の左楽さんてえ人はあたしとおんなじで噺はあんまり上手くありませんでした。〝上手いなア〟と感心したことは一度もありません。『子別れ』『小言幸兵衛』などみんなが演るようなネタを演じていましたが、おもしろくないんですよ。
売り物はといえば『乃木将軍』。トリのときのネタは必ず『乃木将軍』でした。またお客のほうでも『乃木将軍』を注文していましたね。その『乃木将軍』は伊藤痴遊さんに稽古してもらった噺なんです。上手くはなかったが、あくまで会長で大看板。どうしてあんなに偉くなったのか。やっぱり睦会を上手にまとめていったからなんでしょうね。」
これに先立ってこんなことも言っている。
「(前略)このようにどんどん睦会が大きくなるにしたがって、左楽さんは楽屋でデーンと大きな顔をするようになってきました。ひとしきりの間というもの、あたし達若造連中はそばへも寄れませんでしたよ。威張ってて。大将ンなっちゃったわけですね。」
福助からすれば、五代目も横柄な人だったということか。ただその当時、福助は前座で五代目は会長、地位には天地ほどの開きがあった。

左楽の札の隣にあるのは、朝寝坊むらくになった柳亭柳昇。
〝フェー〟〝フェー〟ってしゃべりかたアする面白い噺家でした。酔っ払いと火事の噺が得意でね。(中略)あたしは好きでしたね、この人が。〝稽古してもらおうかな〟と思ったことが何回もありました。でも大のけちんぼう。あたしがまだ前座の頃ですが、何百万円ッて貯金してたんです。ところがその貯金していた銀行が潰れちゃったんですね。それで頭がポーッとなって、頭がおかしくなっちゃった。そのせいで駄目ンなってしまいました。」
八代目桂文楽の『富久』での「小便して寝ちゃおッ」というクスグリは、どうやらこの柳昇が源流らしい。

音曲師の柳家枝太郎は、八代目春風亭柳枝の父。
「大川端の花火を歌い上げる〝両国〟が絶品で〝両国の枝太郎〟と言われていたほどの音曲師です。あたしも都々逸やなんかを教えてもらいましたが、なんとも不思議な人でした。」と言って、小用の後でも紙を使う癇性ぶりを紹介している。
『古今東西落語家事典』によると、この人の最期は太平洋戦争末期の空襲で米軍の焼夷弾が家を直撃し、嫁と孫をかばって爆死するという壮絶なものだった。

『古今東西落語家事典』では昭和初年以降不明だった雀家翫之助の消息が、福助の証言で明らかになる。
「この翫之助のことも、死ぬまであたしが面倒見てやったんです。この男はあたしとおなじように、しばらく東京から姿を消してたン。それが何年かぶりで立川ぜん馬さんと一緒に東京の寄席に出て、二人とも真打ちになりました。
真打ちになったものの、いろいろあったんでしょう。名古屋へきたんです。しょうがないから幇間にしましてね、文長座へも出してたんです。あたしが川丈座に買われて九州のドサを廻ったりしてたときも、一緒に連れて行ったりしてたんですがね。
翫之助の売りものは『稽古屋』。最後に三味線を弾いて〝助六〟を踊ってました。色っぽい爺ィでどうにもしょうがない奴でした。」
残念ながら没年は明らかにされていないが、それでも貴重な証言だと思う。

柳亭芝楽については「この人は五代目左楽さんのとこにいた人ですが、噺はあんまり上手くありませんでした。吉原で女郎屋をやってた人です。」とのこと。

六代目林家正蔵(俗に「今西の正蔵」と言われた)は、「幹部の中でいちばんのうるさ型で理屈屋」。下谷のとんぼという寄席で、福助が『道灌』を演じて高座を下りて正蔵に挨拶した際、皆の前で「今、演ってたのは落語かい?」と言われたエピソードを紹介している。


神田伯山は清水の次郎長で人気を博した講釈師。
「この伯山てえ人は傍に人がいると銭ィくれるんですよ。サシでいるとなんにもくれないン。(中略)柳家小半治の兄弟子の柳家金三ッて奴がよくいってましたよ。
『おい、先生ンとこへ行こうよ、脇に人がいるから』」


初代睦会会長、四代目春風亭柳枝。(後に華柳という隠居名を名乗った。)
「華柳さん(四代目柳枝)はおとなしくて品のいい噺家で、
〝おい、お前〟ッて調子じゃアないんです。〝あなたねェ〟ッていうような口調。俳句や川柳に熱中してました。それにお茶を立てたり・・・。意地悪なんかぜんぜんしませんでした。楽屋にいても大きな態度なんかまったくしないんです。」
左楽の権力者然とした態度とは対照的。趣味人、文人という風情が漂う。

寄席については「四谷の喜よしと人形町の末広、芝の恵智十に神楽坂の演芸場、この四っつが親席なんです。こういう寄席へ上がれればいいんですが、(後略)」と言っている。

まるで大正から昭和初期にかけての東京の落語界を冷凍保存して、そのまま解凍したようだ。まさに「落語界のシーラカンス」の面目躍如と言っていい。何より当時の芸人たちの一人一人の人間性が立ち上がってくるのが楽しい。

それにしても、この記録を残してくれた、川戸貞吉氏の功績は大きいと思うな。

2018年12月9日日曜日

冬到来

昨日の日記。
前日、職場の忘年会でしっかり飲んだので、だらだら過ごす。
昼はナポリタン。正しい休日の昼飯。
忘年会の帰り、同い年の同僚と石岡のバードランドで飲みながら、洋楽の話をした。「リンダ・ロンシュタット、いいよ」と言うので、レコードを出して聴いてみる。イーグルスのカバーなんかやってて、いいのよ、これが。


夕食は、妹の所からお歳暮に送ってくれた肉で、しゃぶしゃぶにする。燗酒も旨し。
寝酒にアイリッシュウィスキー。

今日は義父の墓参りをしに、皆で牛久に行く。


お昼は千成亭で義母にご馳走になる。
サッポロラーメン、チャーハン、餃子、ニラレバ炒め。どれも旨い。





美味しくて居心地のいい、大切にしたいお店。新メニューにも果敢に挑戦しております。


妻の実家でゆっくりして、3時頃帰る。
帰りに牛久シャトーに寄る。今年いっぱいで売店やレストランが営業を終了するとのこと。ワインやワインケーキも販売をやめるという。
桜が咲けばバーベキュー、ちょっと贅沢してレストランで食事、お使い物には牛久ワインにワインケーキと、牛久市民にとってはなくてはならない存在だったのにな。



売店には長い列ができ、レストランは予約で満席だという札が出ていた。皆、名残惜しいんだ。事業を引き継ぐ企業が出てくれるといいんだけど、何とかならないものかなあ。
夕食は、昨日の残りに少し買い足して焼肉にする。牛久からもらったロゼワインも飲んだ。旨し。

この土日は寒かった。やっと冬本番を迎えることになるのでしょうかね。