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2010年2月24日水曜日

悲劇のプリンス、四代目桂三木助

四代目桂三木助のことを少しばかり書いてみたい。
彼の真打ち昇進、四代目襲名は1985年。私が大学を卒業した後だった。
伝説の名人、三代目桂三木助の遺子。父の義兄弟、五代目柳家小さんの庇護も受け、またたく間に売れた。
見るからに御曹司、洒落たシティーボーイであった。厳しい下積みがなかったせいもあり、明るく屈託のないキャラクターは、落語家臭さを感じさせなかった。(ちゃらちゃらしていたという印象は否めないが。)
東京落語会の400回記念特別番組では、春風亭小朝とともに司会を務めた。当意即妙のやりとりは小朝に引けを取らず、才気に溢れていた。小朝に続くスター候補だった。
ただ、線は細かった。著名人を多数呼んだ豪華な結婚式の後、新婚旅行から帰るやいなや離婚。(「成田離婚」の嚆矢であった。)初の芸術祭参加興行の直前、謎の交通事故を起こす。重度の胃潰瘍を患い、胃の4分の3を切除する。様々なトラブルに見舞われ、偉大な父の名跡を継いだ重圧に苦しんだ。
同じように名人を父に持つ古今亭志ん朝は、三木助の死後、「父親の重圧と言えば、俺の方がよっぽどじゃないか」と悲憤したという。
志ん朝の見解は正しい。しかし、志ん朝と三木助とでは少しばかり状況が違う。志ん朝が父志ん生を亡くしたのは、彼が真打ちに昇進してからだった。志ん朝は落語家としての父の偉大さを体感しつつも、私人としてのしょうもなさを十分に見ていた。つまり、父を相対化するだけの余裕があった。三木助が父を亡くしたのは3歳の時。父の記憶はほとんどないだろう。父に関する情報は、父を知る人の思い出話によるものでしかなかった。その中には、例えば安藤鶴夫の著作のように、多分に神格化されたものも多かったに違いない。三木助が父を絶対化するのは自然な流れだったろうと思う。
三木助の高座で思い出すのは、「看板のピン」だ。GWの浅草演芸ホール。柳家小三治のトリの席だった。ここでの彼の分身は、博打の怖さを教える親分よりも、親分に憧れ失敗する若者の方だろう。父三代目三木助は、「隼の七」と異名を取った博打打ちだった。とすれば、あの親分は父。そうか、三木助は、父への思いをあの噺に込めたのか。父に憧れ、しくじる自分の姿を戯画化して見せたのか。小品ではあったが、あの噺は私の心に響いた。
最近、三木助の姉の著書を読んだが、彼は晩年、十代目金原亭馬生の芸を目指そうとしていたという。名人志ん生の長男に生まれ、その重圧に耐え、独自の芸を開花させた馬生。そのいぶし銀の、それでいて優しい芸は、死後25年を過ぎてもファンの心を捉えて放さない。あの派手に売れた、落語家臭さなど微塵も感じさせなかった三木助が最後に目指したものが、あのひそやかな馬生の芸だったことは興味深い事実だった。
しかし、悲しいかな、三木助には重圧に耐え才能を開花させるだけの体力が残っていなかった。2001年1月3日、初席の最中、失踪し無断休演をした翌朝、四代目桂三木助は自宅で首を吊って死んだ。その死に顔は、満面の笑みをたたえていたという。
その後、空前の落語ブームがやってくる。私は、今の柳家喬太郎、林家たい平、柳家三三などの上に立つ三木助を見たかった。その芸は、幾多の風雪に耐え、渋みと深みをたたえたものになっていただろう。

2 件のコメント:

筍 さんのコメント...

三木助さんは亡くなるのが早かったですね。
今生きてれば、明烏みたいな噺をすれば文楽さん以上の物が聞けたかも知れないと思うと残念です。
正直三木助さんは安藤鶴夫を始めとする評論家が神格化しすぎた事もあり、
その重圧に耐えられなくなった事も原因の一つかと思います。
ただ、三木助さんは自殺の原因が本人にも他人にもいっぱいあり過ぎて、
自殺する事を止めるのは不可能だったんじゃないかと思います。
兄弟弟子や他の落語家の嫉妬もありますし、
三木助さんが真打になるまでの間そこまで落語を重要視していなかり、
後個人の意見で言えば、一番の原因は小さんさんにもあると思います。
談志さんの時と一緒で三木助さんを甘やかしすぎて、
三木助さんが苦しむ前に師匠として色々と周りや三木助さんに叱責しなかったりと、
本当は小さんさんがそこのところをしっかりしていれば私は三木助さんが自殺する可能性が減ってたと思います。
まぁ三木助さんも、志ん朝さんみたいに落語仲間と付き合いを増やしていればもっと楽しく落語ができていたんじゃないでしょうか?

densuke さんのコメント...

あの安藤鶴夫の絶筆『三木助歳時記』に出て来た、小林盛夫くん(三代目が兄弟分の五代目小さんと同姓同名にするために付けた名前ですね)が、成長して亡父の名跡を継いだのだから、当時は一大センセーションでした。
喋りは達者だしセンスはいいし、私はファンではないまでも嫌いではありませんでした。
周囲からは「いつ『芝浜』やるんだ」みたいなプレッシャーはあったんでしょうね。それに色々スキャンダルもあったし、また当人も幾分小生意気な今時の若者でしたから、色んな摩擦があったんだろうと思います。

あの『看板のピン』の高座は、記録を見返してみたら、2000年8月中席、鈴本演芸場夜の部のものでした。上野の8月中席の夜の部といえば、柳家さん喬と柳家権太楼が交互にトリをとる「鈴本夏祭り」。さん喬、権太楼がネタ出しの大ネタをかけ、たい平・喬太郎のニュースターが客席を沸かせる中、三木助の高座はかなり地味でした。でも、40歳を過ぎてやんちゃを卒業した、その落ち着いた高座さばきに、私は好感を持ちました。これから三木助はよくなるぞ、と思いました。まさか、それから半年もしないで亡くなるとは思いもしませんでした。

考えてみれば、三代目も若いうちは博打で身を持ち崩し、売れたのは死ぬ前の15年足らずでした。四代目の場合、本人も周囲も性急に過ぎた。それがあの悲劇を生んだのではないでしょうか。

《まぁ三木助さんも、志ん朝さんみたいに落語仲間と付き合いを増やしていればもっと楽しく落語ができていたんじゃないでしょうか?》
そうですね。兄貴分の小朝もそうですが、あまり落語家同士でつるんでいる印象がありませんね。志ん朝が前座仲間との交友を語る時は、本当に楽しそうでした。楽しくやるのって大事ですよね。