十三夜のお月見の晩、夕食の席で親父が「片月見がよくない、というのは樋口一葉の『十三夜』に出ているんだ」と言った。「もっとも俺は浪曲で知ったんだけどな」
なるほどと思い、『十三夜』を読み返してみたら、「今宵は旧暦の十三夜、旧弊なれどお月見の真似事に団子(いしいし)をこしらへてお月様にお備へ申せし、(中略)十五夜にあげなんだから片月見に成っても悪し、(後略)」と、ちゃんと書いてあった。
身分違いの家に嫁した女が、夫の苛めに耐えかねて実家に逃げ帰ってくるが、父親に諭されて婚家に戻る。その帰り、車夫に零落した初恋の男と再会するというお話。
一葉の描く女性は悲しい。
主人公お関は、向こうから見染められ原田家の奥方として嫁に入る。やがて男の子を生むが、その時から夫は人が変わったようにお関を苛めるようになる。今は外に女をこしらえたのか、家を空けることも多くなったという。
夫がお関に対する態度を変えたのは「跡取りが確保された」ことと無関係ではあるまい。そうなってみると、身分違いの妻が、いかにも無教養で同僚たちの妻のような洗練されたところがないことに気づき、蔑みの感情が生まれたのだと思う。
原田はお関を一目見て妻にしようとした。つまり、彼女の美貌のみに惹かれたといってよい。半ば強引に妻にし、飽きたら苛め抜く。女を鑑賞物か子どもを生む機械としか思っていない。
しかし、その原田家にお関の実家は恩恵を受けている。お関の弟(跡取り息子)は、原田家のおかげで出世の糸口をつかみかけているのだ。父親が娘の諄々と諭すのも、こういう事情があってのことである。
お関は家のために耐え抜くことを父親に誓う。いや、誓わざるを得なかった。
お関は覚悟を決めて婚家に帰る車に乗る。その車を引く車夫が、お関の初恋の相手、録之助だった。
録之助はれっきとした煙草屋の一人息子だったが、お関の結婚で自暴自棄になり、放蕩の末身代を潰して、今は浅草の木賃宿暮らしだという。
二人は広小路で別れる。録之助が暮らす木賃宿の二階も、お関が帰る原田の屋敷も、「憂きはお互ひの世におもふ事多し」と、同じこの世の地獄であることを暗示して、この小説は終わる。
一葉もまた悲しい女性であったのだろう。彼女の登場人物へのまなざしは優しい。
この『十三夜』をもとに、益田太郎冠者が落語にしたのが、八代目桂文楽が得意にしていた『かんしゃく』である。
ここでは、夫の癇癪に耐えかねて帰って来た娘に、父親は「何でも自分でやろうとせず、人を使っておやりなさい」と教え諭す。娘は父の助言通り、準備万端整えて夫を迎えるが、夫は「これでは俺が怒ることができんではないか!」と癇癪を起す、というお話。
ただ怒鳴ってストレスを発散させたいだけの夫を、文楽は無邪気で稚気あふれる人物に描き、からっと笑わせてくれた。文楽がこの噺をすると、客席で顔を見合わせて笑う夫婦がよくいたという。
そうか、『十三夜』は浪曲にもなっていたのか。そういえば、この間、『夢二の女』という、竹久夢二と彦乃を題材にした浪曲を聴いた。浪曲には、文芸ものというジャンルもあるんだね。『十三夜』もいつか聴いてみたいもんであります。