2021年7月21日水曜日

小美玉市野田、若の川留吉記念碑


小美玉市野田、通勤途中で毎日見る石碑。「若の川留吉記念碑」と刻まれている。

どう見てもお相撲さんの記念碑だわな。

ネットで調べたら、瞬時に出てきた。便利な世の中だねえ。


若ノ川留吉。安政7年(1860年)、茨城県東茨城郡(小川町)生まれ。錣山部屋。

四股名は若ノ川留吉から、一時、筑波山留吉を名乗り、また若ノ川留吉に戻している。

明治14年(1881年)5月に初土俵。最高位は西前頭8枚目(明治23年5月)。最終場所は明治37年(1904年)1月。生涯成績は21勝18敗19休4分5預。幕内成績は4場所で5勝9敗19休4分3預だった。

大正4年(1915年)12月17日、55歳で没。


明治22年(1889年)5月場所の幕内番付表も見つけた。本所回向院境内晴天十日の間興行した、としてある。

若ノ川は西前頭9枚目。この場所の成績は2勝1敗3休2分2預だった。

大関は東に劒山谷右エ門、西は一ノ矢藤太郎、張出に大鳴門灘右エ門。小結に小錦八十吉、もちろんコニタンではない。あの四股名は明治から続く由緒ある名だったのだ。

西前頭3枚目には常陸山虎吉。茨城県水戸市出身。この後すぐ出羽ノ海運右エ門に改名する。大酒飲みでどぶろくを好み「どぶとら」と呼ばれた。最高位は前頭筆頭だが、後に明治の大横綱、常陸山谷右衛門の師匠となる人である。

西前頭8枚目には阿武松緑之助がいる。あの落語『阿武松』の主人公と同じ名前である。もっとも落語の方は江戸時代の噺なので、こちらは別人。阿武松という名は年寄名跡になっているけど、何代かは四股名として継承されたようだ。

明治23年(1890年)5月の番付表では、若ノ山は東前頭8枚目。これが彼の最高位となる。この場所の興行は、雨続きと感冒流行のため9日間で終わった。この場所の若ノ川の成績は2勝4敗2休1分1預。

この場所では東の横綱に西ノ海嘉治郎。彼は明治22年当時は西関脇だった。小錦は東の大関に上がっており、大関だった一ノ矢は関脇に落ちている。阿武松の名前はもうない。常陸山から改名した出羽ノ海は東前頭2枚目だった。

明治24年(1891年)1月の番付表では、若ノ川は筑波山留吉に改名して東前頭10枚目張出の幕尻にいる。

一ノ矢はさらに小結に落ちており、出羽ノ海は東前頭5枚目にいた。

これ以降の番付を見たが、筑波山、若ノ川の名前はもう見えなかった。


大きい方の記念碑が建てられたのが大正11年(1922年)3月。多分、小さい方が先に建てられていたんだろう。

大相撲は日清・日露の戦争を経て復興の波に乗る。常陸山・梅ケ谷の活躍で黄金時代を迎え、明治42年には両国国技館が開館する。それまで露天で行われていた大相撲は、東洋一の大鉄傘の下での興行となった。

そのちょっと前、志ん生が生まれた頃に活躍していた力士が、すぐ近くから出ていたんだな。調べてみると色々分かって面白かった。

 

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