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2021年9月26日日曜日

日曜の午後、ヒップホップを聴く

朝、トースト、ベーコンエッグ、牛乳。

朝イチで床屋、散歩がてら歩いて行く。


お彼岸の間、彼岸花ももったねえ。

すっかり稲刈りも済みました。

昼はそば、おにぎり。曇っていて肌寒い。

川崎出身のヒップホップグループ、バッドホップの動画を見る。この前読んだ『川崎ルポ』という本の中に主要人物として彼らが出てくるのだ。貧困、差別、暴力が常態化した壮絶な環境の中から彼らの音楽は生まれた。

私は学生時代、川崎に住んでいた。私が住んでいたのは、幸区南幸町という「閑静な住宅地」で、工業地帯付近のディープなエリアには、あまり行っていない。。ただ、15分も歩けば川崎駅西口に出るし、さらに跨線橋を渡って東口に出れば、そこは川崎区だった。休日に川崎球場まで歩いた時、コリアンマーケットに迷い込んだ。裸電球に照らされた鮮やかな唐辛子の赤い色が、今も胸に残っている。

学生時代よく聴いた、ダウンタウンブギウギバンドの「住めば都」という曲がある。41年前、宇崎竜童は「やかましい町 埋め立ての町 サビ色の町 空気匂う町 たれ流しの町 大企業の町 公害認定患者あふれる町」と川崎を歌った。その頃にはまだ生まれていなかった青年たちの歌う川崎もまた、同じようなイメージで描かれる。そして宇崎がそれでも「住めば都・・・マイホームタウン」と歌ったように、その町で生まれその町で育ちその町で苦闘する彼らもまた、川崎を歌い続ける。音楽の力で過酷な環境から這い上がっていく。息子のような年代の人たちの歌に心を揺さぶられる。

川崎の工業地帯


夕食は父が買って来たとんかつと餃子でビール、酒。食後にアイリッシュウィスキー。


2021年9月21日火曜日

中秋の名月

今日は中秋の名月、十五夜のお月見である。

秋の収穫に感謝し、またの豊作を祈る。

天気予報はあまりよくなかったが、きれいに晴れて見事な月が出た。

夕食は、赤飯、けんちん汁、手羽先、梨、栗を食べる。旨し。




小谷野敦の『谷崎潤一郎伝』読了。

物置から持って来た『FOR BEGINNERS シリーズ 日本の権力』(1991年・現代書館)を読み始める。日本の民主主義が、「お上が「民」を「主」んじて政治をして下さるという、恩恵のほどこしの政治にほかならない」ということが鋭く指摘される。

威勢のいい権力者にわらわらと臣民たちがすり寄る。そんな光景が今まさに現在進行形で繰り広げられているのではないか。状況は確実にひどくなっていると思う。 

2021年9月20日月曜日

彼岸の入り

今日は彼岸の入り。午前中、お墓へ行く。よく晴れて日差しが強い。


家でゴンチチを聴きながら『谷崎潤一郎伝』を読む。

昼は栗ごはん、味噌汁、焼肉、煮物。

午後、涼しくなってから石岡を散歩する。例年ならお祭りでにぎやかな街も、緊急事態宣言下でひっそりとしている。







帰って妻と夕方ビール。

夕食は鶏ときのこのオイスターソース炒め、ベーコンきのこ炒め、サラダで酒。食後に妻と白ワインを飲む。

三連休はほぼ何にもせず、のんびりしていました。


2021年9月19日日曜日

圓蔵師匠が語る 文楽の妻たち④

さて、今回は人呼んで「長屋の淀君」、寿江夫人である。

文楽は『あばらかべっそん』の中で、贔屓のヒーさんこと樋口由恵の仲人で神田明神で式を挙げ、講武所の花屋で披露宴をしたと言っている。年譜では、大正14年(1925年)ことである。

一方、圓蔵師匠は、昭和3年(1928年)頃、名古屋へ行って幇間になったが一向に売れず、岐阜、大阪と流れて東京に舞い戻った。それが昭和5年(1930年)頃。名古屋で知り合った芸者の家に転がり込んでいたが、その女も名古屋に戻ることになり宿なしとなった。


こっちはとたんに困っちゃった。寒いのに外套なしで、行く所がないので仕方なく、今の黒門町の師匠の家の前に立ったんです。そしておそるおそる、すみませんでした、もう一度おいて下さいと頼んだんですが、師匠は、駄目だ、おまえみたいな奴は家にはおけないという。そうしたら、おかみさんがそんなことをいわないでおいてあげなさい。もともとあんたの弟子なんだからと、とりなしてくれ、すぐはなし家として寄席へ出すのは無理だから、しばらく家においてもらえることになったんです。(『てんてん人生』)


この後、横浜、横須賀で幇間に出るがうまくいかず、結局、落語家、桂文雀に戻って、黒門町の家に住み込み、前座修業をやり直すことになった。以下は『聞書き七代目橘家圓蔵』からの引用である。


またぞろ女中業に逆戻りで、犬はいる、猫はいる、お神さんの親戚から貰った子供もいる。今度のお神さんは女ひと通りのことは不得手だが、それでいて、やかましい。博才があって、綽名は“長屋の淀君”。近所のお神さん達を引き込んで、花札賭博。多い時は日に五円稼ぐ。当時の寄席はどん底で、師匠の収入も少ないから、どうしても亭主を軽く見勝ちだから、弟子にしてみれば、お神さんの態度が気に入らない。寄席から帰って、遅い夕食の支度をする時、師匠はマメだから時々手伝ってくれる。嬉しくないことはないが、そんな事はしてもらいたくなかった。


このおかみさんは寿江夫人で間違いないだろう。まさに、九代目文楽の言う「苦み走った女」ですな。雷門福助の話では富士見町の待合の女。文楽の戦後に入門した弟子たちは、九段で芸者をやっていたと言っている。ちなみに富士見町は九段にある。

「お神さんの親戚から貰った子供」についての『聞書き・・・』の記述。


師匠が貰い子をしたのは横浜へ行く前だった。母親と一緒に来て、皆でちやほやしている隙に母親は帰ってしまった。親のいないのに気付いた子供は狭い家の中を探して歩いていたが、最後に便所の戸をあけ、中に親がいないのを知ると、忽ち大声で泣き出した。ねんねこで背負って外へ出たが、知らぬ他人の背中だから、子供は反っくり返って泣きじゃくる。

《まるで人攫いみたいでねえ、湯島の天神さまに連れて行って、ようやく泣き止んだけど、あン時は困ったよねえ、本当に》

  その子が少しも懐かない。それも道理で、子供が寝込んで畳の上に転がっていても、お神さんは花札に夢中だから、そのままにして、一向に構ってやらない。子供を返すことになった時は、実の親の所へ戻った方がいいと思っていたから、口にこそ出しては言わぬが、賛成だった。しかし、和菓子で有名な兎屋のそばにある高橋病院の所で、子供と三十円の金を親に渡して、それと引っ換えに、今後この子とは関係がないという証文を受け取った時には、自分が五歳で養子に出された経験があるだけに、ひどく嫌な気持ちがした。


高橋病院はこの前の地図にも載っている。


文楽の養子には戦争で行方不明になった敏夫がいるが、その前にも貰い子をしていたんだな。古今亭志ん生がやはりこの頃、次女を文楽の家に養女にやることを試みている。

圓蔵師匠は寿江夫人と反りが合わなかったようだ。文楽夫婦が喧嘩をして、おかみさんが出て行く、と言った時、運送屋を呼んで、さっさとトラックにおかみさんの荷物を積んでしまった。


《そんでね、最後に鏡台を運ばせた時、(ここの家にはこんな物はねえだろう)って顔しやがった。わたしも癪にさわったから、並木亭で引退の演芸会をする時に飾る予定でいた、小田原の芸者から貰った箱根細工の立派な鏡台を二階から持ってきて、今まで鏡台があった場所へ据えたら、お神さんがジロッと人の顔を見て、

「馬鹿! 何してンだい。犬だって三日飼やァ恩を忘れないじゃないか。一年でも、二年でも一緒にいたんだよ。まして弟子じゃないか。人が「出てくッ」たら、止めンのが当たり前だろ。それを何ンだい。運送屋を手伝って、人の荷物を自動車に積み込む奴があるかい」って怒ったけど、あン時は別れた方がいいと思って一所懸命だったからねえ・・・。あとではいいお神さんになりましたけどね》


このエピソードについては、六代目柳亭左楽が『内儀さんだけはしくじるな』という本の中でこう言っている。


 これは聞いた話でけど、先代の圓蔵師匠が文雀の頃、師匠とお内儀さんが大喧嘩した時に師匠が、
「出て行けっ。おいっ。文雀っ、荷物をこしらえて。寿江っ。出て行けっ」
 って言ったら、圓蔵師匠は、
「へいへい」
 って荷物をこさえちゃってね、後で仲良くなったら、師匠が圓蔵師匠に、
「こいつがいけねえ」
 だから、大喧嘩しても夫婦だからね、荷物なんかこさえちゃいけないんです。


圓蔵師匠は二年間前座修業をした後、再び名古屋に下り幇間となる。師匠が落語家として本格的に復帰するのは、戦争で幇間ができなくなり、昭和16年(1941年)に東京に戻ってからである。


Wikipediaでは寿江夫人との結婚は、昭和15年(1940年)としてあるが、こうして辿って行くと、昭和のヒトケタの頃には寿江夫人の時代だったと考えるのが自然だと思うがなあ。Wikipediaの年代の根拠がよく分からない。

2021年9月16日木曜日

久し振りの鹿島神宮

この前、午後から休みをもらって鹿島神宮に行った。

もうずーっと家と職場にしかいない。少しだけ日常とはちがう空気を吸ってみたいと思ったのだ。

参道の無料駐車場に車を止めて行く。


楼門前にいつもなら出店が出ているのだが、緊急事態宣言下だからね。

高房社。本宮の前にここにお参りするのが本寸法。

本宮にお参り。

本宮脇には大助(おおすけ)人形が展示してある。
東北平定に鹿島の大神を助けた武士の姿をかたどったものだという。


奥参道を歩く。

今回は、奥参道を行って、御手洗池に下りた。

平安時代、鹿島詣での客は、御手洗池近くまで舟で来た。そこ頃の鹿島神宮は、現在の奥宮の位置に本宮があり、その奥の院が要石なのではないかという説がある。今日はそのルートでお参りをしようと思ったのだ。

御手洗公園にある北の鳥居。
震災で倒壊したが、最近復活した。

御手洗池。

まずここで身を清めて、となれば、ここが参詣のスタートラインでなければならない。

前の茶屋で小休止。湧き水で淹れたコーヒーを飲む。

ここから急坂を上る。


坂を上りきると奥宮がある。
今は令和の大改修中。

こちらは2019年正月の奥宮。

奥宮の脇を抜け奥へ進むと建御雷尊の石像がある。

さらに森の中を進む。

要石。大鯰を封じ込めているという。

この石は香取神宮まで続いているという。



神域の森を歩いていると身体が浄化されていく。


日常へと帰る。頑張ろう。

2021年9月13日月曜日

圓蔵師匠が語る 文楽の妻たち③

次は三番目の妻、しんについて。

丸勘の女主人とその前の女房については『あばらかべっそん』の中に出てくるが、この人については一切の言及がない。関東大震災から、「長屋の淀君」こと寿江夫人と結婚するまで、文楽の婚姻関係は混沌としている。

では、『聞き書き七代目橘家圓蔵』の記述を引用する。


三番目のお神さんは横浜で芸者屋をしていた人で、金語楼師の妻女の養母に当たる人だった。浮気症で、東西の芸人を軒並み撫で斬りにしたので有名な人で、しかも文楽師より十歳(とお)も上だったから、自分でも気になるのか、文楽師を舐めるように大事にした。御当人もすっかりのぼせているから、楽屋で自分の女房の評判の悪いことなぞは知る由もない。しかし、弟子の耳には、よくまァ、あんな女とねえ」というような噂が次々と飛び込んでくる。

《ここが忠義の見せどこだと思ってね、お神さんのことを洗いざらい話したら、師匠は夢中ンなってるとこだから、「出てけェー」って言われちゃった。だけど。弟子がそんなこと言やァ、怒ンのが当たり前ですよ》


こうして圓蔵師匠は破門になる。この後、鈴々舎馬風の紹介で柳家小三治(後の七代目林家正蔵、初代三平の父である)の弟子になり、柳家治助と改名するものの、吉原の花魁に入れあげて楽屋の金をくすねるようになり、噺家を辞める。それから、吉原の若い衆から牛太郎(客引き)、それも続かない。とうとう名古屋で幇間をすることになる。


文楽、三番目の妻に関しては、これがいちばんまとまった証言ではないかな。

他に雷門福助の話があるが、時系列がごちゃごちゃしていて、よく分からない。震災後、雑司ヶ谷で新しくできた女と寺の離れを借りて暮らす。文の家かしくが死んだ後、そのかみさんと関係を持って黒門町のかしくの家で所帯を持つ。そのかみさんも死んで寿江夫人と関係を持つ。という流れらしい。

私としては文楽の直弟子として常に傍にいた圓蔵師匠の証言を取りたい。でも、もしかしたら全て同時進行というのも、文楽師匠ならありそうで怖い。 

2021年9月11日土曜日

栗を剥く日

朝、パン、牛乳、ウィンナーソーセージと卵の炒めもの。パンにはタルタルソース。

息子たちを連れてPCデポへ行く。天気よくないねえ。


帰りに本屋に寄る。『ルポ川崎』(礒部涼・新潮文庫)、『谷崎潤一郎伝・堂々たる人生』(小谷野敦・中公文庫)、『二魂一体の友』(萩原朔太郎、室生犀星・中公文庫)を買う。文庫本が一冊、1400円とは本も随分高くなったなあ。

昼は昨夜余った天ぷらを天丼にする。

今年は涼しいせいか彼岸花が早そうだ。

午後は栗を剥く。『ルポ川崎』読了。雨がさーっと降る。

夕方ビール。久々のハートランドビール。


夕食は鮭のムニエル、ペンネで白ワイン。

寝しなにアイリッシュウィスキー。


政権与党の総裁選はすごいな。新聞報道によると「選挙に勝てれば誰でもいい」と言う若手がいるそうな。お前は何のために政治家になったんだ、と言ってやりたい。

それにしても、候補者がそろって、AさんとかAさんとかの顔色をうかがっているよねえ。あの人たち、そんなに偉いかねえ。国会で100回以上嘘ついたり、背後を「せご」と読んだり、立法府と行政府の区別もつかなかったり、未曽有を「みぞうゆう」と読んだり、「ナチスに学んだらどうか」と言ってみたり、自慢できるのは血筋だけで、人間性も知性もどうかと思うレベルなんだけどね。

この状況で、国会も開かず権力闘争に明け暮れる。候補者は前総裁の疑惑も正せない。議員さんたちは政策理念なんかそっちのけで、誰が勝ち馬なのかにしか興味がない。

私ゃ投票権ないし、どうでもいいけどね。ただ、それが我が国の政権与党の姿であるということを胸に刻んでおく。

2021年9月9日木曜日

圓蔵師匠が語る 文楽の妻たち②

文楽の二人目の妻は、日本橋近くの江戸橋にあった丸勘という土蔵造りの旅館の女主人だった。名前を鵜飼富貴といい、文楽はこの家に婿に入り、鵜飼益義となった。大正8年(1919年)のことである。

結婚の経緯は前回述べた通り。

圓蔵師匠は弟子入りをする時、この丸勘に行った。入門が許され、桂文雀の名前をもらう。圓蔵師匠は、このおかみさんについて、このように語っている。

《太ったお神さんでねェ、芸人が惚れるようなタイプじゃないね、あれは。真打昇進で金が要るんで一緒になったんでね、もうその頃は横浜の芸者屋の姐さんとできてたんだから》 

雷門福助はこう言う。

おかみさんが、スッスースッスー前を歩いているやつを、文楽師匠がうしろからついていってねェ、「おい福ちゃん、見ろよ、あのレキを俺がうかがうんだが、お前たいへんだよ」ッていったほど、こんなに太ったおかみさん。

愛はなかったんだろうね。『あばらかべっそん』には、この時期の、何人もの女との「色ざんげ」が書かれている。

そんな風だから、いずれ別れが来る。

大正12年9月1日、いよいよ別れ話になって関係者が集まるというので、文雀(圓蔵師匠)は「今日は忙しいから、寄席に行くまで芝居でも観ておいで」と言われて浅草に行った。

芝居を観ている最中に大地震が襲った。関東大震災である。やっとのことで二日後に丸勘にたどり着くと、旅館は丸焼けになっていた。焼け跡に木の札が立っていて、「文雀に告ぐ。富岳に居る 文楽」と書いてあった。富岳は青山にあった三流の寄席。そこで文楽一家が避難していた。

そこからおかみさんの親戚を頼って新宿の柏木へ移る。東中野の隣。小満んが「中野」と言っているのはここだろう。近くの川で師匠の体を洗う。圓蔵師匠はこの時の印象をこう語る。

《石の上に腰掛けてもらって、師匠の背中を流したんです。若い頃の家の師匠ッてもンは綺麗な身体ァしてましたね》

寄席も焼けたし旅館も焼けた。そこでおかみさんの発案で、半蔵門の前ですいとんを売った。おかみさんとしては、芸人を辞めて堅気になれば文楽の浮気もやむだろう、という思いがあったらしい。次いでこわ飯を売ろうというので、千住の先まで仕入れに行かされた文雀は、「こんなことをやるために噺家になったのではない」と思い、実家の様子を見に行きたいと師匠に申し出た。するとこんなやり取りがあった。

家を出る時、師匠が「お前さん半纏は来てるが、手拭も持ってお行きよ」と言って、笑って見せた。(こりゃア近い内に旅に飛び出すんだな)と察しがついたから、「へえ、御心配なく。両方ともちゃんとあります」と答えた。

東京に戻ると、予想通り師匠文楽は北海道の巡業に出ていた。文雀は神田白梅亭の席亭が経営している道灌山の白梅園という全室離れの連れ込み旅館に身を寄せた。大師匠五代目左楽一門がここに避難していたのである。

《ここへお神さんが会いに来ましたよ。浴衣ァ着て、蛇の目の傘さして、左楽さんから「北海道へ行ってると言っちゃいけない」って言われてたから、「知らない」って返辞をしたんですが、うしろ姿を見ると、肩ァ落としちゃって、本当に淋しそうでしたね。師匠も罪作りなことをしたもんですよ》

こうして文楽は鵜飼富貴と別れた。文楽自身は「丸勘の家も一年ももたないだろう、なんて云われてね、それで五年も辛抱したんですよ」と柳家小満んに言っているが、小満んが、「それでは師匠、そのおかみさんとは、結局どうなったんでしょうか・・・」と聞くと、いつも「その時ですよ、お前、グラグラッ! ときたのは」とはぐらかされたという。文楽としても語りたくない過去だったのだろう。

五年辛抱したとはいえ金目当ての結婚だ。どう考えても酷い男だよね。いかにファンでも弁護できない。文楽には稀代のエゴイストという一面がある。

2021年9月7日火曜日

圓蔵師匠が語る 文楽の妻たち①

柳家小満ん著『べけんや』の中の「おかみさん」は、七代目橘家圓蔵の話をもとに書かれたという。それならば、圓蔵師匠(当ブログでは基本的に敬称を省略しているが、この方は私の大学時代の技術顧問、「師匠」なのです)の本を見れば、文楽の妻について詳しく書かれているかもしれない。そこで、物置から『てんてん人生』、本棚の奥から『聞書き七代目橘家圓蔵』を取り出して来た。

期待通りだった。『聞書き・・・』の方が詳細に書かれているので、そこから引用してみよう。

まずは、最初の妻おえんについて。著者の山口正二が師匠の話を基にまとめた文章を、以下に記す。


 最初のお神さんは大阪の紅梅亭(後の花月)でお茶子をしていた。文楽師匠は大正五年、七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)の所で翁家さん生で二ツ目になったが、東京で売れないので、大阪へ行った。この時に何くれとなく世話をしてくれたのが此のお茶子さんで、これが縁でいい仲になった。亭主は船乗りで留守勝ちだったから、紅梅亭で働いていたのだ。

 どこでどう知ったかはわからないが、二人のいる所へ亭主が来て、郵便貯金の通帳を前へ置くと、「これはこいつの為にわたしがこつこつ貯めた金だ。だから、これを持って、二人で東京へ行って、どうかこいつを幸せにしてやってくれ」と言った。

 東京の御徒町の長屋の二階を借りて、二人は新婚生活に入った。お神さんは立花亭へお茶子に出たが、文楽師が足を悪くした時には、車で通院できるような身分でもなかったので、病院まで背負って往復したりして、本当に良い世話女房だった。 


文楽の最初の妻について、もっともまとまった文章がこれではないか。

しかし、文楽はこの妻と3年ほどで別れてしまった。圓蔵師匠は次のように証言している。


《真打になって売れてくると、長屋の女房みたいなお神さんは鼻につくんだね。で、今度は文楽になるんで金が要る。丁度その時、芳町に金語楼さんを可愛がっていた年増芸者で菊弥ッてえのがいて、そこへみんなが寄った時に、その女が「宿屋をしている後家さんがいるんだけど、どうだろう」って師匠に話したんだ。つまり、丸勘のお神さんですよ。師匠は前のお神さんに手切れェ渡して、入り婿したわけ。手切れ金だって丸勘から出てるんでしょう。それからねェ、「これはどっかに書いておくれ」と師匠に言われたから話すけど、震災で困った時、その金を前のお神さんからまた借りたってンだから、師匠もいい役者だよ。最初のお神さんはそン時は洋食屋なんかしていたらしいですね》


文楽の『あばらかべっそん』には次のようなエピソードが紹介されている。

① 最初の妻は阿波の徳島の出身だった。彼女が用事で実家に帰った時、留守に文楽の女が次々とやって来る。とうとう隣の裁縫の先生に「いくら芸人とはいえ、留守にとっかえひっかえ知らない女がやって来ては、台所で働いているとは何事です」と怒られてしまった。

② 当時の親友、春風亭梅枝が文楽の家に遊びに来ると、おえんが行水をしていた。梅枝は連れて来た仲間に向かって、「ただでのぞいてはいけませんよ。入場料を頂きますよ」と言って切符を作り十銭ずつとってのぞかせた。文楽自身も十銭払ってのぞいた。

文楽がこの妻のことを語る時(それほど多くは語っていないが)、どこか青春の一コマを振り返って懐かしんでいるような感じがする。私には文楽の『厩火事』のお崎さんの中に、彼女が生きているように思えるのだ。

『聞書き・・・』の著者山口正二も「僅か四年に足らぬ縁だったが、文楽師にとっては一番良いお神さんだったのではなかろうか」と書いている。




2021年9月5日日曜日

秋の訪れ

昨日の日記。

御飯、味噌汁、ウィンナーソーセージ、スクランブルエッグ、佃煮。

雨、肌寒い。八代目桂文楽『 あばらかべっそん』から、文楽の住まいの記事をまとめる。

昼は焼きそば。

吉行淳之介「鼠小僧次郎吉」読了。

夕食は唐揚げ、豚バラ大根鍋、さつま揚げ、ポテトサラダで酒。

寝しなにアイリッシュウィスキー。

前日、ワクチン接種をした妻は頭が痛いと言って、薬を飲んで早めに寝る。


今日の日記。

朝、御飯、味噌汁、ハムステーキ、納豆。

長男とPCデポ。パソコンをメンテナンスに出す。

昼は帰りに買って来たモスバーガー。旨し。

『あばらかべっそん』を読んで、文楽が自身の結婚に対しては、ほとんど語っていないのに気づいて、では、弟子の七代目橘家圓蔵はどのように言っているか気になって、物置から『てんてん人生』、本棚から『聞き書き七代目橘家圓蔵』を出して読む。面白い。

夕食は父が買って来た刺身で酒。食後にアイリッシュウィスキー。

父は今日、栗を拾って売ったという。もう秋なんだねえ。

朝顔もバジルももう終わりだねえ。

先週の新聞を読み返したら、まさに激動の一週間だった。米軍がアフガンを撤退し、タリバンが政権を掌握したのも衝撃だった。

国内では、首相退陣だな。「総裁選延期、解散か」から「解散は断念」、「幹事長を含む人事刷新」、そして「首相総裁選に出馬せず」だ。じたばたした挙句、「コロナ対策に専念するため」と称して政権を投げ出したというところだろう。


朝日新聞、「天声人語」に曰く、「忘れていけないのは、わずか1年前にこの党は圧倒的多数で菅氏を選んだことだ。ろくに政策論議もせずに」。

今もまた、この政権与党は、首相が辞める理由に挙げた「コロナ対策に専念する」ことはそっちのけで、誰が勝ち馬なのかにかかりきりだ。「陰気なパワハラから陽気なパワハラへ」とか「生活保護を攻撃するネトウヨのヒロイン」とか、気が滅入るものでしかないが。いずれにせよ私には投票権はないので、政権与党の党員の皆さまがどのような選択をするか、よく見ておこうと思う。そして、来るべき衆議院総選挙には、ささやかながら、自分に与えられた権利をしっかり行使したいと思う。

2021年9月4日土曜日

桂文楽の住まい

この前、八代目桂文楽の『あばらかべっそん』を読み返した。

ここで、文楽が住んだ所を辿ってみたい。

まず、並河益義少年が住んだ根岸の家。『あばらかべっそん』の中で、文楽は「根岸の家というのはちょうどいまの花柳界のまん中あたりでしたが」と言っている。

国土地理院の地図の博物館で買って来た「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内 下谷區詳細図」で見ると、この辺りですな。(その後、益義少年は10歳で横浜住吉町一丁目十一番地の多勢商店に奉公に出された)

三業組合の辺りは「松平様」のお屋敷があった所だ。
 

2020年2月、根岸を歩いた時の写真。花柳界があった柳通。

明治41年(1908年)、並河益義は初代桂小南に入門し、桂小莚の名前をもらう。そして浅草瓦町28番地の小南の家に住み込む。後に小南は浅草須賀町に引っ越し、大阪から両親を呼び寄せた。小南は父親に汁粉屋をやらせたが、その汁粉屋の二階に小莚は暮らした。そして、浅草三筋町の朝寝坊むらく(後の三代目三遊亭圓馬)のもとに稽古に通った。

これも国土地理院の地図の博物館で買って来た「明治40年東京市15区番地界入 浅草区全区」を見てみた。

青で囲ったのが、瓦町28番地。赤で囲ったのが須賀町である。

「いまこんな町名、みんな蔵前何丁目と一括されてしまったんでしょう」と文楽は言う。「昭和三十三年大東京立体地圖」(これも国土地理院の地図の博物館で買って来た)ではこの辺りか。


明治44年(1911年)、師匠小南は三遊派から別派を作ろうと画策して失敗。大阪に引き上げる。小莚は師匠をなくしたため、旅回りに出る。

旅から帰ったのは大正5年(1916年)。翁家さん馬(後の八代目桂文治)門下となり、翁家さん生と改名する。ところが、さん馬が睦会参加の約束を反故にして演芸会社に加入するのに憤慨し、睦会副会長五代目柳亭左楽のもとに身を寄せる。左楽に相談に行ったのが、「私がまださん生でこの黒門町のお化け横丁—箭弓稲荷の横に二階借りをしていたじぶんです」とのことだった。

黒門町箭弓稲荷は、「下谷區詳細図」では下図の赤で囲った所である。(地図では「箭矢稲荷」になっている)


箭弓稲荷。

奉納額には桂文楽の名前が見える。

同年、さん生は大阪で知り合った紅梅亭のお茶子、おえんと御徒町で所帯を持った。翌年には翁家馬之助で真打ちに昇進する。




しかし大正8年(1919年)、馬之助は江戸橋の旅館丸勘の女主人鵜飼富貴と結婚、婿に入る。おえんには手切れ金を渡して別れたという。翌年は八代目桂文楽を襲名する。(文楽襲名にかかる費用は丸勘から出た)

青で囲んだ所が江戸橋。

「昭和三十三年大東京立体地圖」より。
丸勘は昭和通りの辺りにあったという。

丸勘は大正12年(1923年)の関東大震災で全壊。文楽は弟子文雀(後の七代目橘家圓蔵)と中野に疎開し一時すいとん屋をやったが、間もなく鵜飼富貴から逃れるために北海道へ巡業に出る。

翌大正13年(1924年)、横浜の芸者、しんと結婚。西黒門町に所帯を持つ。が、このしんともすぐに別れ、長く連れ添う寿江夫人と結婚する。「贔屓のひーさん」樋口由恵の仲人で神田明神で式を挙げ、講武所の花屋で披露宴をした。

なお、丸勘から焼け出された後の話は『あばらかべっそん』には書いていない。柳家小満んが七代目圓蔵から聞いた話をもとに書いた『べけんや』の記述に拠った。

また、名古屋を拠点とした落語家、雷門福助によると、西黒門町の家は元は音曲師の文の家かしくの家で、かしくの死後、文楽がかしくのかみさんと関係を持ち入り込んだのだという。とすれば、それはしんとの結婚前、北海道巡業から帰った後のことか。

ちなみに、文雀はしんの悪い噂を文楽の耳に入れ、かえって逆鱗に触れて破門になってしまった。ここから大戦後まで、圓蔵師匠の不遇の「てんてん人生」は続く。

赤点の所が文楽宅。
地図は昭和12年当時のもの。

黒門町の文楽宅跡地。

この路地の左側。

住居も妻も転々と変えた文楽は、寿江夫人との結婚を機に黒門町に腰を落ち着けた。そうして「黒門町の師匠」と呼ばれるようになるのである。