さて、今回は人呼んで「長屋の淀君」、寿江夫人である。
文楽は『あばらかべっそん』の中で、贔屓のヒーさんこと樋口由恵の仲人で神田明神で式を挙げ、講武所の花屋で披露宴をしたと言っている。年譜では、大正14年(1925年)ことである。
一方、圓蔵師匠は、昭和3年(1928年)頃、名古屋へ行って幇間になったが一向に売れず、岐阜、大阪と流れて東京に舞い戻った。それが昭和5年(1930年)頃。名古屋で知り合った芸者の家に転がり込んでいたが、その女も名古屋に戻ることになり宿なしとなった。
こっちはとたんに困っちゃった。寒いのに外套なしで、行く所がないので仕方なく、今の黒門町の師匠の家の前に立ったんです。そしておそるおそる、すみませんでした、もう一度おいて下さいと頼んだんですが、師匠は、駄目だ、おまえみたいな奴は家にはおけないという。そうしたら、おかみさんがそんなことをいわないでおいてあげなさい。もともとあんたの弟子なんだからと、とりなしてくれ、すぐはなし家として寄席へ出すのは無理だから、しばらく家においてもらえることになったんです。(『てんてん人生』)
この後、横浜、横須賀で幇間に出るがうまくいかず、結局、落語家、桂文雀に戻って、黒門町の家に住み込み、前座修業をやり直すことになった。以下は『聞書き七代目橘家圓蔵』からの引用である。
またぞろ女中業に逆戻りで、犬はいる、猫はいる、お神さんの親戚から貰った子供もいる。今度のお神さんは女ひと通りのことは不得手だが、それでいて、やかましい。博才があって、綽名は“長屋の淀君”。近所のお神さん達を引き込んで、花札賭博。多い時は日に五円稼ぐ。当時の寄席はどん底で、師匠の収入も少ないから、どうしても亭主を軽く見勝ちだから、弟子にしてみれば、お神さんの態度が気に入らない。寄席から帰って、遅い夕食の支度をする時、師匠はマメだから時々手伝ってくれる。嬉しくないことはないが、そんな事はしてもらいたくなかった。
このおかみさんは寿江夫人で間違いないだろう。まさに、九代目文楽の言う「苦み走った女」ですな。雷門福助の話では富士見町の待合の女。文楽の戦後に入門した弟子たちは、九段で芸者をやっていたと言っている。ちなみに富士見町は九段にある。
「お神さんの親戚から貰った子供」についての『聞書き・・・』の記述。
師匠が貰い子をしたのは横浜へ行く前だった。母親と一緒に来て、皆でちやほやしている隙に母親は帰ってしまった。親のいないのに気付いた子供は狭い家の中を探して歩いていたが、最後に便所の戸をあけ、中に親がいないのを知ると、忽ち大声で泣き出した。ねんねこで背負って外へ出たが、知らぬ他人の背中だから、子供は反っくり返って泣きじゃくる。
《まるで人攫いみたいでねえ、湯島の天神さまに連れて行って、ようやく泣き止んだけど、あン時は困ったよねえ、本当に》
高橋病院はこの前の地図にも載っている。
文楽の養子には戦争で行方不明になった敏夫がいるが、その前にも貰い子をしていたんだな。古今亭志ん生がやはりこの頃、次女を文楽の家に養女にやることを試みている。
圓蔵師匠は寿江夫人と反りが合わなかったようだ。文楽夫婦が喧嘩をして、おかみさんが出て行く、と言った時、運送屋を呼んで、さっさとトラックにおかみさんの荷物を積んでしまった。
《そんでね、最後に鏡台を運ばせた時、(ここの家にはこんな物はねえだろう)って顔しやがった。わたしも癪にさわったから、並木亭で引退の演芸会をする時に飾る予定でいた、小田原の芸者から貰った箱根細工の立派な鏡台を二階から持ってきて、今まで鏡台があった場所へ据えたら、お神さんがジロッと人の顔を見て、
「馬鹿! 何してンだい。犬だって三日飼やァ恩を忘れないじゃないか。一年でも、二年でも一緒にいたんだよ。まして弟子じゃないか。人が「出てくッ」たら、止めンのが当たり前だろ。それを何ンだい。運送屋を手伝って、人の荷物を自動車に積み込む奴があるかい」って怒ったけど、あン時は別れた方がいいと思って一所懸命だったからねえ・・・。あとではいいお神さんになりましたけどね》
圓蔵師匠は二年間前座修業をした後、再び名古屋に下り幇間となる。師匠が落語家として本格的に復帰するのは、戦争で幇間ができなくなり、昭和16年(1941年)に東京に戻ってからである。
Wikipediaでは寿江夫人との結婚は、昭和15年(1940年)としてあるが、こうして辿って行くと、昭和のヒトケタの頃には寿江夫人の時代だったと考えるのが自然だと思うがなあ。Wikipediaの年代の根拠がよく分からない。
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