2021年10月14日木曜日

柳家小三治の思い出

柳家小三治の思い出を、思いつくまま書こうと思う。

 

私が柳家小三治を知ったのは中学生の時だった。ラジオで『湯屋番』を聴いたのである。若旦那の人を食った能天気さに私は腹を抱えて笑った。

後に大西信行の『落語無頼語録』を読んで、『湯屋番』にこんなエピソードがあることを知った。

永六輔が主宰した落語会に俳優の毒蝮三太夫が出演して『湯屋番』を演じた。三太夫に続いて高座に上がった小三治は、「私もやってみようか?」と言って、同じ『湯屋番』を演った。そして大受けを取ったという。

この時の高座を大西はこう分析している。

「小三治がふだんからギャグやくすぐりで客を笑わそうとせずに、そこに出て来る人間のオカシサを落語の生命と見きわめて、それへ自分の芸を集中して来たその心掛けが、あの夜の笑いとなったのだ」

私にとって『湯屋番』は小三治なのである。

 

小三治の『小言念仏』を初めて聴いたのは、高校の頃、テレビの「放送演芸大賞」でだった。大賞を受賞した小三治は、スタジオにしつらえた急ごしらえの高座で『小言念仏』を演った。面白かったなあ。そうは見えなかったが力が入ったのだろう。叩きすぎて扇子が壊れた。高座を終えた彼は「かぜがぼろぼろになっちゃったよお」と言って、はにかんだように笑った。

大学に入って寄席に行くようになると、小三治はそこでのべつ『小言念仏』を演っていた。何十回となく聞いたが、その度に笑った。

落研部員だった私は、聞き覚えの『小言念仏』を高座にかけた。結果は惨敗だった。この噺の難しさを思い知り、愕然とした。

 

やはり大学の時、学習院大学が、小さんと小三治が出演する落語会を開いた。小さんが中入り前で『らくだ』、小三治がトリで『芝浜』という夢のような番組だった。この『芝浜』がよかった。何の説明もなく、「ちょいとお前さん、起きとくれよ」と始まる、クールな味付け。芝の浜での夜明けの場面の素晴らしさ。魚勝のひょいと見せるかわいらしさ。女房も、決して熱演しているわけではないが、しみじみと心にしみた。

 

小三治が長いマクラを振るようになったのはいつからだろう。『ま・く・ら』に入っている話で最も古いのは1982年だが、その多くは1990年代のものだ。

私が最初にああいうマクラを聴いたのも、やはり1990年代初頭だった。

筑波大の落研が小三治を呼んで落語会をやるというのを聞いて、仕事帰りに行ってみた。学生の「小三治の前でいい度胸してんな」という落語を聴きながら、辛抱強く小三治の出を待った。

そして、いよいよ待ちに待った登場。小三治は「二上がりかっこ」の出囃子に乗って高座に現れ、飄々とマクラを振り始めた。面白かったが、なかなか終わらない。「まさか、ここまで待って落語をやってくれないのではあるまいか」と不安になる。その話は、多分『ま・く・ら』の中に入っている「めりけん留学奮闘記」だったと思う。30分ほど喋った後、噺に入った。ネタは『出来心』。小三治はたっぷり演じた。私は満足したが、それでも「マクラ30分、噺25分はさすがにアンバランスだろう」と思った。しかし、やがてそれが小三治のスタイルとして認知されていく。

 

かつて色川武大は、三遊亭圓生を評して、「文楽・志ん生という高峰を知る自分は、圓生をどうしてもこの二人の下に置かざるを得ない」と言った。古今亭志ん朝も「文楽、志ん生、圓生と並べると、聞いて楽しいのは、文楽・志ん生だった」と言っている。これは多分に世代的なものだろう。文楽、志ん生が老い、圓生が全盛期を迎えた頃に落語を聴き始めた者は、圓生を最上位に置くことにためらいはないだろう。

私も同じように、志ん朝、談志、小三治を並べれば、どうしても小三治を一段低く置いてしまう。これはどうしようもない。

小三治には志ん朝のような華も談志のような凄みもない。だが、二人が持ち合わせていないフラがある。晩年の小三治はフラと間だけでも客を支配した。それはまるで古今亭志ん生のようだった。

 

そういえば、小三治の背後には色んなものが見えた。

もちろん、五代目小さんの影響は大きい。小さんの芸の継承し言語化させ発展させたのは小三治だと思う。

真打昇進時に立川談志が「小三治」という名前を欲しがったが、小さんはそれを許さず、後に小三治に襲名させた。「弟子の中では談志がいちばん上手い」と高く評価していたのにも関わらず、小さんは小三治を、柳家本流を継承する者に指名したのだ。今にして思うと、小さんの慧眼に恐れ入る。

ただ素人時代は三遊亭圓生にそっくりだったという。四、五十代の頃は圓生ばりに、大向こうをうならせる大ネタをよく演じていた。

『富久』では久蔵の造形に八代目三笑亭可楽の影響が見えた。

長いマクラから『一眼国』を演じる姿は、八代目林家正蔵を彷彿とさせた。

『船徳』『かんしゃく』『明烏』『厩火事』といった八代目桂文楽のネタもよく演じた。「私は後年文楽ファンになりました」と小三治は言っていた。『かんしゃく』を今につないでくれたのはありがたかった。

小三治のかくし芸に物真似があった。若い時分には、落語家の出の形態模写もやっていたという。また多趣味であり凝り性でもあった。様々なものを吸収する柔軟性が、小三治にはあったということだ。そして、それが彼の芸を豊かなものにしていったのだろう。

 

2000年代の前半、小三治は浅草演芸ホールの5月上席夜の部のトリを取っていた。私は何年かこの興行に通った。

ゴールデンウィークの浅草は観光客でいっぱいで、演芸ホールも混んでいた。しかし、時間が遅くなるにつれて客が減っていく。夕方に立ち見だったのが、夜の部の中入りには空席ができて座れてしまうのだ。「いいのか、小三治のトリだぞ」と、私は座れてラッキーなはずなのに、いささか憤慨したものだ。

持ち時間の関係もあったのだろうか、ここで小三治は長いマクラを振ることもなく、彼を聴くために残った客を相手に落語を喋った。『千早振る』、『野ざらし』、『天災』、『出来心』、そして『猫の皿』などを、私は堪能した。大向こうをうならせるようなネタではない。が、人間の可笑しさ愛おしさが、ふわっと立ち上ってきた。『猫の皿』での、とうもろこし畑の描写がよかった。

 

ここ10年ぐらいは池袋演芸場の8月上席昼の部のトリが、寄席で小三治を観ることができる機会になっていた。

私は2回行ったが、どちらも『一眼国』だった。それよりも集客がすごかった。開場1時間前に行っても長蛇の列。客席は身動きもできなかった。2001年に池袋で志ん朝を観た時には開演後でも座れたことを考えると、隔世の感があった。

いつしか私は、その興業の夜の部、林家正雀の怪談噺を選ぶようになった。

ここまで寄席に客が押し寄せるようになったのは喜ばしいことだ。しかし、正直に言えば、ふらっと寄席に入って小三治を楽しむことができた昔が懐かしかった。

 

20211010日、柳家小三治の訃報が届く。あまりにも突然だった。

駄句が次々とできた。以下に掲載し追悼の言葉としたい。

 

コスモスが揺れて、小三治が逝った

人は皆死ぬか小三治逝きにけり

志ん朝談志小三治と十年ごとに逝きにけり

小三治のいない夜長や手酌酒

 

長い間、楽しませていただき、ありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます。

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