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2012年6月29日金曜日

あれから1ヶ月

あれから1ヶ月。
病院から説明あり。目覚ましい回復とのこと。 ここ数日で、急に退院の話になる。
そうは言っても、初の介護。受け入れの側では不安が大きい。
ここのところ意見の相違やら、意思の疎通の行き違いなどでがさがさした雰囲気になる。
双方の連絡、調整。家でも職場でも、私の役回りはそれ。ちょっとだけ、ため息が出る。
とりあえず、週末外泊して、来週には退院の運びとなる。
ケアマネージャーも決まった。今後、色々とアドバイスをいただくことになる。
親が弱るのは寂しい。だけど、今まで優しい子ではなかった私に、今回の一件で神様はひとつのチャンスをくれたのかもしれない。父が母をいかに愛しているかも分かったし。
これからが日常。皆で気負わず無理せずやっていこうな。

夜は長男の誕生会。しゃぶしゃぶで黒ビール、酒。

2012年6月25日月曜日

霞浦劇場


土浦、霞浦劇場。
昔、私はここで『竜二』を観た。 私はあまり映画を観る習慣がないが、この映画には鮮烈な印象がある。
脚本、主演の金子正次が、何と言っても格好良かったなあ。上手くはないけど、圧倒的な存在感があった。
子分の役で、北公次、佐藤金造、妻に永島暎子といった脇役陣もよかった。主題歌は萩原健一の『ララバイ』。(このショーケンの歌がまたかっこいいのよ。)
主演の金子は、この映画で世に出たが、公開間もなく癌で死ぬ。鮮やかな光芒を放ち、あっという間に消えて行った。
シナリオ集『竜二・ちょうちん』、評伝『ちりめん三尺ぱらりと散って』も読んだけど、面白かったなあ。
この映画館もなくなって随分経つ。いい味出してたんだけどな。(ここで山本奈津子主演『濡れて打つ』なんてのも観ましたけどね。)

2012年6月21日木曜日

そうか、森田童子がいたんだ

大福さんのブログを読んで、森田童子のことについて書きたくなった。
森田童子を知ったのは、高校生の時だ。友川かずきがディスクジョッキーをしていた「若いこだま」というラジオ番組で『さよならぼくのともだち』を聴いたのだと思う。(私はこの番組で、三上寛、なぎらけんいち、ジャニス・ジョプリンなどを知った。)甲高い繊細なその声を聴いて、私はケイト・ブッシュみたいだと思ったのを憶えている。
石岡のレコード屋で、童子のデビューアルバム『グッドバイ』を見つけて買った。ジャケットの彼女は、もじゃもじゃのカーリーヘアに丸いサングラスをかけ、革ジャンを羽織っていた。まるで少年のような容貌で、「ぼく」と「きみ」の歌を歌う童子は、性を超越した存在に思えた。
保育園から高校まで一緒だったH君から『マザースカイ』と『ア・ボーイ』の2枚のアルバムをダビングしてもらった。私はこの3本のテープを持って、川崎のアパートに引っ越していった。
特に『マザースカイ』は好きだったな。1曲目の『ぼくたちの失敗』からラストの『今日は奇蹟の朝です』まで、緊密な統一感にあふれた、まさにトータルアルバムと呼ぶべきものだった。
1980年に出た『ラストワルツ』。これも買ったが、これを川崎の四畳半で聴いていると、我ながらやばいと思った。このままいったらまずいよなあと、『たとえばぼくが死んだら』を聴きながら思ったものだ。

そういえば、昔聴いた、なぎらけんいちのライブアルバムで、なぎらがこんなことを言っていた。
山崎ハコの歌を聴いていると、条件反射的に暗くなって死にたくなる。そこで『パブロフのハコ』という歌を作った。
ハコも暗いが、森田童子は超弩級に暗い。以前ツアーで一緒に回った時があった。ある街で、宿で打ち上げをやったが、そのうち外に出ようということになった。童子も誘ったが行かないという。そこで「じゃあそこにいて」と言って皆で出かけた。
2、3時間して帰ってくると、童子は出かけるときと寸分たがわぬ姿勢で同じ場所に座っていた。

深入りすると危険だという雰囲気と、深入りせずにはいられない魅力が森田童子にはあった。(ラストアルバムとなった『狼少年』も、私はしっかり買った。)
大福さんも書いていたが、ドラマ『高校教師』での森田童子ブームには違和感を覚えたな。あの時発売されたベスト盤は90万枚以上売れたという。当時は意地でも買わなかったけど、今思えば、90万人の人が童子の歌に心を揺さぶられたということなのだな。
あのブームでも、森田童子は表に出なかった。新聞記者の取材には、「今は普通の主婦なのでそっとしておいてほしい」と言ったという。
現在、森田童子と道ですれちがっても誰も彼女とは気がつくまい。しかし、カムバックしないということは、今の生活が彼女の守りたい幸せなのだろう。
そうか、あの森田童子が主婦か。よかったなあ。彼女が平凡な幸せを手に入れたことは、私にとってもささやかな希望に思えてくる。
森田童子、間もなく60歳に手が届くはずである。

2012年6月18日月曜日

かしてつ追想③


鹿島鉄道、鉾田駅。
かつては関東の駅100選に入った味のある駅舎。
現在、駅舎は取り壊され、残ったホームも東日本大震災で崩れてしまった。
今日、鉄道の廃線跡を撮影した写真集を立ち読みした。かしてつも取り上げられており、カメラマンのコメントもあった。
その中で、彼を案内した地元の少女(彼女はかしてつの存続運動に参加していた)は、高校での3年間の活動がよけいなおせっかいになっちゃったと苦笑した後、「最後の日、運転手さんは明るく接してくれたけど、きっと私たちのことをうざがってたと思う。」と言ったという。
そうか、高校生の柔らかい心は、そんな風にも傷つくんだ。胸が痛む。

最近のこと。 母の危機的状況は去ったらしい。言葉の後遺症は残るものの、身体の麻痺は見られない。ただ、筋力は相当落ちているから、自由に歩けるようになるかは分からない。いずれにしても介護は必要になるだろう。ともかく、一山越えた。神様に感謝したい。

2012年6月15日金曜日

伝助の根多帳③

3年の春合宿には『猫の災難』を持って行った。
その年の「みな好き会」という対外発表会にかけるネタである。
私は柳家小三治のテープで覚えた。
この噺の後半は、ただひたすら酒を飲み酔っ払うという展開になるのだが、この件が部員にウケた。どうやら、熊さんの酒に意地汚いところが、私にかぶったようだ。「これはいけるかな」という手ごたえがあった。
合宿から帰って、この噺を仕上げるのに、ちょっとした遊びをした。八代目桂文楽は、『素人鰻』を稽古した時は、実際に鰻を掴んでみたという。この噺で、熊さんは5合の酒を一人で飲む。私もそれに倣って飲んでみようと思ったのだ。
でも、一人でやるのも面白くない。そこで大福さんに白羽の矢を立てた。彼は酒が飲めない。大福さん相手に飲んでみようということにした。両方で飲んだら、自分が飲んだ量が分からなくなるからね。ほんとに勝手な話だな。大福さん、すまなかった。
大福さんの生田のアパートに行く。大福さんのアパートは生田の駅から、一度急な石段を上り、そしてまた同じぐらい下った所にあった。「ずいぶん効率の悪い所にあるなあ。」と、私は理不尽な文句を言ったものだ。
そこで私は日本酒の四合瓶を空けた。酒を飲まない大福さんを前に、くだらない話をぐだぐだとしながら、最後はけっこうべろべろに酔っ払った。 これじゃ『猫の災難』というより、『一人酒盛り』の稽古だったな。いや、『大福さんの災難』と言うべきか。申し訳ない。
大福さんの協力もあって(かどうかは分からないが)、『猫の災難』は私の得意ネタになった。ちなみに私はこのネタで、「大福ゆめの寄席」に栄えある出演を果たしている。(詳しくは大福さんのブログ参照のこと)

2012年6月10日日曜日

30年目の同窓会


今日の午後、BSで井上陽水の「30年目の同窓会」という番組をやっていた。
陽水がホストとなって、昔ツアーで一緒に回った仲間を沖縄のリゾートホテルに招いて旧交を温め、1曲歌ってもらうという企画。大分前に放映されたものの再放送だ。何といっても故高田渡が出演しているくらいだもの。
メンバーは、小室等・高田渡・三上寛・友部正人・加川良といった面々。彼らが酒を酌み交わし、ぐだぐだと雑談にふける様が面白い。それぞれが個性的、変なおじさんたちだ。また、それぞれにポジションが決まっているんだな。陽水がいみじくも言っていた、「ピッチャー三上、キャッチャー小室、センター友部、ショート加川、セカンド高田、ネット裏井上って感じ。」という言葉通りだ。(陽水は公式記録員といったところだね。)
陽水のリクエストでそれぞれに歌ったのが、三上寛『夢は夜ひらく』、高田渡『生活の柄』、加川良『教訓Ⅰ』、小室等『雨が空から降れば』、友部正人『一本道』。これぞ『THE…』。代名詞ともいえる名曲ぞろいだ。だけど、あまりに代表的過ぎるきらいがあるのは否めない。
もう1曲ずつ歌って欲しかったな。三上なら『負ける時もあるだろう』、高田は『自転車に乗って』、加川は『オレンジキャラバン』、友部は『密漁の夜』、小室は沖縄だし『老人と海』なんてのはどうだろう。
そうだ、川崎のアパートで聴いていた人たちが歌ってくれる、伝助版「30年目の同窓会」ってのもいいな。densuke‘sリクエストとしてはこんな感じかな。友川かずき『歩道橋』(ちょっと代表作すぎるかな。『石森さん』、『優美子の春』、『青春』なんてのもいいけど、あの頃といえばこれなんだよね。)、三上寛『響け電気釜』、泉谷しげる『裸の街』、宇崎竜童『鶴見ハートエイクエブリナイト』、友部正人はやっぱり『一本道』なんだよなあ。
こういう話ができる人、なかなかいないんだよね。

2012年6月9日土曜日

かしてつ追想②


かしてつの駅舎には、味のあるのが多かった。 常陸小川駅。私にとってはいちばんなじみのある駅だ。始発終点の石岡・鉾田を除いては、路線中唯一、常時駅員さんがいる駅だった。
ここはビートたけし主演『教祖誕生』という映画のロケで使われた。
この駅前で、新興宗教の布教活動が行われたのだ。
あの映画では、教団は海を渡るフェリーからかしてつに乗り継いだ。現実には考えられない訽定だな。かくも映画というのは空間的に、何と自由な表現であることよ。
下の写真は、早朝の待合室。渋いよねえ。

2012年6月7日木曜日

かしてつ追想


鹿島鉄道鉾田線。通称かしてつ。石岡から鉾田を結ぶ、ローカル私鉄。廃線になって5年が過ぎた。
その昔は、鹿島参宮鉄道といったのだから、鹿島まで伸ばすつもりだったのだろう。
私が小さい頃は、関東鉄道鉾田線だった。後に関東鉄道が鹿島鉄道という子会社を設立してこの路線の経営に当たらせたのだ。
どう見ても儲かってはいなさそうだったし、通学や通勤に利用する機会はなかったが、いつも身近にあり、ずっとずっとそのまま存在していてくれるのだと思っていた。古いかわいらしい気動車が、筑波山をバックに霞ヶ浦沿いを走るのは、なかなかいい光景だった。
最初の危機は、自衛隊百里基地の燃料輸送がトラックに切り替えられた時だった。それまでは、榎本駅に燃料タンクがあり、そこからパイプラインでジェット燃料が送られていた。この燃料輸送がかしてつの大きな収入源だったのである。
かしてつ経営危機の報が流れると、近隣の高校生が「かしてつ応援団」を立ち上げ、存続運動を始める。このおかげで、かしてつはマスコミや鉄道マニアに注目されるようになった。様々な企画列車が運行され、イベントが行われた。
しかし、つくばエキスプレス開業のために、親会社の関東鉄道の高速バス事業が打撃を受ける。これが致命傷となって、かしてつの廃線は決まった。
自衛隊の燃料輸送、つくばエキスプレスの開業と、結局は国策の前にあっけなくかしてつは潰れた。
廃線決定後も、2つの団体が経営に名乗りを上げたのにもかかわらず、石岡市を中心とした地元自治体は、存続を断念した。この当時は平成の大合併が行われた頃で、自治体もかしてつのことなど十分に検討できる状況ではなかった。けっ、また国策だ。
写真は石岡駅、鹿島鉄道線区。今はもう更地になっている。

2012年6月4日月曜日

昨日今日明日

時間とは連続性のものである。
昨日の次は今日、今日の次は明日というように、その流れは自然でよどみない。
しかし、その連続性が、時に分断されるということも、私たちは知っている。
例えば、2011年3月11日の前と後。あの日以降、私たちは放射能の存在に常につきまとわれ、それは一生消えることはないだろう。
そして、私にとって2012年5月30日もそんな日になりそうだ。集中治療室のベッドに横たわり、きちんとした言葉を発せないいらだたしさに顔をしかめる母の姿を見ていると改めてそう思う。
正確に言えば、どのような事態になっても時間はよどみなく流れている。よどみなく流れないのは人の心だ。そして、今の状況も極めて個人的なものだということも自覚している。
また、私ぐらいの年齢になれば、親が健在でいる方がラッキーなグループに入っていることくらいのことも分かる。しかし、それがこうなって初めて思い知らされた。その感情にうまく適応できない。
この出来事をあれこれと考えて、文章に置き換え、抽象化、相対化しようとどんなに試みても、無理だな。この数十分でやっとそこにたどり着いた。
まあいいや。自分にとっては非日常だが、それもやがて日常になる。日常とは向き合わなきゃな。
皆、一度は通る道だ。皆、そうやって生きてきたんだよな。おれも頑張ろう。

2012年6月1日金曜日

夏泊1985

1985年の青森旅行では、鰺ヶ沢、十三湖、小泊、竜飛、蟹田と津軽半島をぐるっと回った。太宰の『津軽』とは逆回りコースだ。当時、半分ぐらいは未舗装の砂利道だったなあ。国道だったんだけどね。
その日は浅虫温泉に宿をとる。夜はOさんと街に出て行った。場末のスナックに入って、中年のママと青森の話をしたのを憶えている。
翌朝、Oさんと風呂に入っていたら、男湯におばちゃんの団体が入ってきたのにはビビったね。
浅虫を出て、夏泊半島に寄った。海水浴場があったが、朝早い時間帯だったので、客はあまりいず、店々では開店の準備をしていた。あまり観光ずれしていない、いい雰囲気だったな。
写真は夏泊。バイトの女の子も今はいいお母さんになっているだろうな。

最近の出来事。
母が倒れた。くも膜下出血。幸いすぐに手術ができ、今はICUに入っている。言葉は上手く出てこないが、意識は次第にしっかりしてきた。話しかけると、顔をくしゃくしゃにして笑う母を、私は可愛いと思う。
家族皆で、何とか協力してやっていくよ。頑張ろうな、母ちゃん。