朝、おにぎり、味噌汁、チキンナゲット、スクランブルエッグ。
朝イチで床屋。散歩がてら歩いていく。
前山の百合が開花。今年は花弁がやせている。雨が降らないせいか、木を切って日陰がなくなったせいなのだろうか。
昼は妻が作ったナポリタン。具だくさんで旨し。
ここのところ、滝田ゆう『泥鰌庵閑話』を読んでいる。ちくま文庫版の古本をアマゾンで105円で買ったのである。滝田の漫画は一気読みはできない。綿密に描き込まれた描線は読み飛ばされることを拒む。また、老眼が進んだ眼には、文庫本版の漫画を読むのがつらい。細部を判別できないストレスがたまる。それでもなお、読み進めずにはいられない。
いわば、滝田ゆうの「私」漫画。作者自身を思わせる主人公の、ひたすら飲んだくれる姿が描かれる。滝田は1990年8月、58歳で亡くなった。嵐山光三郎は、この本の解説で滝田の通夜の場面から、「ここにいる人は、みな酒飲みばかりだ。滝田さんの死に自分の姿を見ている。滝田さんみたいにめちゃくちゃに酒を飲めばこうなるのだ、ということがわかっている」と書いている。滝田ゆうは、まさに酒に溺れて死んだのだ。
一方で滝田は、妻と二人の娘を持つ「市井の人」でもあった。漫画においても、すべての原稿を、自分の手で、細部に至るまで描き込まずにはいられない職人肌の作家であった。ただ、彼の心には茫漠とした穴が開いていて、それ故に酒を必要とした。しかし、いくら飲んでもその穴を埋めることはできなかった。しかも、自らの酒に溺れる姿が、作品となってしまった。嵐山はこう推察している。「おそらく滝田さんは、この作品を書くために飲みにいき、泥酔をくりかえし、つぎは自分が描く作品に刺激されて、また飲んだのではないか」。結局、滝田ゆうは作品によって殺されたのかもしれない。
私もまた、酒飲みである。けれど、私は酒に溺れることができなかった。私は破滅型の天才に憧れながらも、自分が酒に溺れるさまを飯のタネにできるような才能を持ち合わせてはいなかった。それは私にとって幸運だったのだろう。たぶん。
妻と夕方ビール。サッポロ黒ラベル。
夕食は焼肉でビール、赤ワイン。シメの焼きそばまでしっかり食べる。旨し。
食後にジョニーウォーカー赤ラベル。
うちの小っちゃなひまわりが咲いた。
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