以前、我が家のご先祖様の話をした。明治の頃、この地にやって来て、裁縫所をやりながら田地田畑を買い、この家の基礎を築いた女傑のおばあさんの話である。
その続きを話してみたい。
女傑のおばあさんには子どもがなかった。そこで、隣の集落から養子をもらった。それが私の祖父にあたる。祖父は近くの村から嫁を貰い、3人の子に恵まれた。
いちばん上の女の子は長じて東電の技師のもとに嫁いだ。2番目はやはり女の子で、この人は16か17で早世した。そして3番目に待望の跡取り息子が生まれた。
昭和の初めごろ、この3人の子の母親が亡くなる。祖父は後妻を貰った。後妻は、霞ヶ浦の対岸の村に生まれ、結婚して浅草に出たが、その結婚に失敗し郷里に帰って来ていた人だった。この人が私にとっての祖母である。
跡取り息子(私にとっては伯父に当たるので以後伯父と呼ぶ)は温厚な好青年に育っていた。しかし、その頃日本は、中国とのいつ果てるとも知らぬ泥沼のような戦争を続けていた。昭和16年12月8日には欧米を相手に宣戦を布告、世界を相手に無謀な戦いを始めるに至る。
伯父に召集令状が届いたのは昭和17年の暮であった。ただちに水戸東部連隊に入隊。翌年には陸軍歩兵としてビルマ(現ミャンマー)に送られた。以後、伯父はビルマ派遣軍森隊の一員として、ビルマ各地を転戦することになった。
平時であれば、初代のおばあさんが買い集めた田地田畑を親子で耕し、いずれどこかから気立てのいい花嫁を貰って、この家を引き継いでいったのだろうと思う。
ところが彼を待っていたのは、38式歩兵銃を担ぎ、故郷から遠く離れたビルマの密林を歩き廻る日々だった。ビルマでは過酷な戦いが続いていた。特に昭和19年のインパール作戦は、補給を無視した無謀な作戦だったため、多くの兵が飢餓と病気によって無残に死んだ。その退却路は「白骨街道」と呼ばれるほどであった。(この作戦では7万人を超える兵士が死んだと言われている。)
伯父はこの戦地で2年以上も生き延びたが、昭和20年7月20日、ついに戦死した。26歳であった。墓石に刻まれた文章を読むと、戦死した場所はビルマ国トングー県ベネコン東北部とある。調べてみると、この日トングーでは「シッタン川渡河作戦」という戦闘があり、多くの兵士が雨季で増水した川で溺死している。この年、ビルマは4月に雨季に入り、豪雨と洪水に日本軍は悩まされていた。私が小さい頃聞いた話では、泥水に浸かりながらの行軍中、隊列に将棋倒しが起きて、伯父はそれに巻き込まれてしまったということであった。
いずれにしても伯父はビルマの雨季の泥水の中に沈んだ。遺骨はおろか遺品もなく、祖父母は家に届いた戦死通知を墓に埋めた。
跡取り息子を亡くした祖父は、生家から養子を迎える。それが私の父である。我が家は2代養子で繋いで、やっと家系を存続させた。
15年以上前、妻とマレーシアのペナン島に旅行したことがある。
ホテルのプールのデッキチェアに座り、マラッカ海峡を眺めながら、私は伯父のことを考えていた。
田舎の農家の跡取り息子は、なぜマラッカ海峡を越え、遠くビルマまで行って死ななければならなかったのだろう。戒名に「温厚院」と付けられるほど温和な人が、なぜ38式歩兵銃を担がされ、殺し合いの場に放り込まれなければならなかったのだろう。そして、私と伯父は同じ海を前にして、なぜこうも違うのだろう。
そういう時代だった、と言われればそれまでだ。日本全国こんな話はどこにでも転がっていよう。でも、あの戦いで死んだ一人一人にはかけがえのない人生があり、彼らを愛する者にとって彼らはかけがえのない一人一人だった。その自覚を、当時の戦争指導者が持っていたようには思えない。そうでなければ、あんなに人の命を軽々しく扱うような作戦や戦闘が行われるはずがない。(戦争とはそんなもんだと言われれば、やはりそれまでだが。)
しかし私たちの国は、それを痛切に悔やんだ。悔やんだからこそ、その反省に立って今がある。それを私たちは今一度肝に銘じるべきだと思う。
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