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2016年6月9日木曜日

伸治の話

さて、お次は「伸治の話」である。
桂伸治は後の十代目桂文治。父親は三代目柳家小さん門下の柳家蝠丸。新作落語「女給の文」の作者である。初代小文治に入門して、前座名を小よし、二つ目になって伸治と改名した。伸治のまま昭和33年に真打昇進。芸術協会ではこの年、春風亭柳昇、三遊亭小圓馬、桂小南、春風亭柳好、三笑亭夢楽が真打に同時昇進し、皆、売れっ子となった。以後彼らは後の芸術協会の屋台骨を支えていくことになる。伸治は、昭和54年には桂派の止め名である文治を襲名。江戸前の滑稽噺の名手として、「親子酒」「あわてもの」「湯屋番」「豆屋」「牛ほめ」などで寄席の客席をぐわんぐわん沸かせた。晩年は桂米丸の後を承け、四代目の芸術協会会長を務めた。

ではSuziさんに語っていただこう。
「伸治の面白いところ・・・というか、エエーー!!考えられないーー!って事なんですが、伯父から聞いた話ですのでホントかどうか・・・?
『伸治の家ってのはナ、不思議な家だよ、全く。あのナ一、敷地内にナ、家のほうに本妻がいてナ、離れの方には妾のほうが居てね、この二人が又仲がいいんだよ。おかしな構成なんだよなあ。それでな、伸治が悪さするとナ、妾と本妻が組んで伸治をやっつける』
中学生の私だってそのくらいは解るんで、
『伯父さんウッソー』
『馬鹿、ホントの事だ』
そんな話を覚えています。」 

出口一雄がそう言っているということは、出口が亡くなった昭和51年より前のことだな。文治は大正13年生まれだから、彼が50歳前後の頃だろうか。
妻妾同居(正確に言えば別棟だが)というのは、いわば男の理想なのかもしれない。でも、私は御免こうむる。

「さ、もう一つホントの話をしましょう。今はどうなったか知りませんが、昔は赤坂辺りにはクラブが多かったんですよ。そのクラブには外国から来た凄い芸人や踊り子も出る。その合間の幕間に落語家の下ッ端や、漫才師、ボードビリアンなどが余興に出ます。殊に新年は稼ぎ時。私は伯父のところにお正月で遊びに行っていました。そこへ伸治から電話がかかって来たんです。
『社長、今日の場所の名前忘れちゃって・・・、なんだか横文字ってのは、難しいですねえ』
『お!伸治か。あのナ、あれナ、キャンセルになったんだ。ありがとうよ』
『そうすか、ありがとうゴザイマス』ってんで電話を切って・・・、新年の楽しい時間が過ぎていきました。
確か、お正月も3日は過ぎていたと思います。」 

なぜ3日以降ということを覚えているのか。Suziさんはこう続ける。
「元旦は9時10時頃から、ひっきりなしに来客。毎年50人以上は来ましたね。さっと引き上げてくれる人(嬉しい!ありがたい!)。長ッ尻の人。酔っ払うとクセの悪い人(父が追ン出す)。酔いつぶれて寝てしまう人。大きくもない我が家の、確か8畳と6畳を通した部屋はもうゴチャゴチャ、戦場さながらでした。
午前中は父が来客相手に飲んでいますから、私は配膳とか片付け、ま、お燗係です。 午後、『俺はもう駄目だ!』と言って、親父さんは酔っ払って寝てしまいます。妹や弟はスキーに行ったりしていないことが多い。そもそも未成年(弟はまだまだ子供)ですし、妹はお客相手が大嫌いなので。こういうとき、父と私は、のん兵衛同士の戦友仲間意識が出る。母はお手伝いさんと台所で料理作りと、洗いもので奮戦中。それを知っているのでクリスマスや正月休暇でスキーに行く、ってのは気の毒で出来ませんでしたね。長女の損な立場です。
サア、午後は私がお客と飲む相手をします。チョビチョビ酔わないように飲みます。時には着物を着ていますので、乱れてもまずい。ま、途中からはラフな服に着替えましたが・・・。嫌な役回りでした。嫌なお客も居ますし、21、22の娘にはつらい付き合いです。でも、こういうことがあって、人との会話や様々なことを覚えられました。ちょっと話がそれますが、それに我が家はいつも来客のある家で、家族だけだと『あれ!?今日は誰も来ないの?』そんな会話が出る家でした。
母は料理の上手な人で、誰の話もおとなしく、そうですねエ、と優しく受け答える。父が若者を怒っていればトイレに行った隙に『気にしないでいいんですよ』なんて言って。診療所のレントゲン技師の人、看護婦さんも時々来ていましたし、兎に角近所の若者がよく来ていて夕飯食べて帰っていました。母は「我が家の出費は食費がNo.1!エンゲル係数高い家!」なんて冗談言っていたのを思い出します(当時エンゲル係数なるものが問題視された時代でもありましたから)。近所でも有名な、夕餉時はいつも笑い声のある家でした。
父の冗談、母の受け、私も妹も、そして弟も皆冗談や駄洒落好きの家でした。母も時々チョロット冗談を言っていましたね。
2日は父が2、3軒新年参りに出かける。我が家に親戚の来る日となります。
だから3日以降しか私は動けなかったんです。」
出口家の賑やかな様子を目の当たりに見るようだ。飾らないSuziさんの人柄は、こんな雰囲気で育まれたのだろう。出口一雄も、Suziさんの母君の手料理が好きで、よくこの家に立ち寄っていたという。

伸治の話を続けよう。Suziさんが出口一雄のマンションに遊びに行っている時のことである。
「さて・・・話も弾んでしばらく経った頃伸治から又電話が入ったんです。
『お、伸治か、どうした?』
『社長、3時間くらい【キャンセル】ってクラブ探してんですがね。ドーーーッコもそんな名前のナイトクラブありませんぜ。何処なんですかーー?』
『バッカヤロウ、おめえ、キャンセル・・・ってのはなあ、無くなった、中止、って事だよ!』
『ハア、そうすか・・・』
『今日はもう何にもねえんだろう、此処に来い!いっぱい飲め!』・・・って言うことのおかしなウソのような本当の話です。
電話を置いて伯父が言いました。『アンちくしょう、全く!怒るに怒れねえ!』
私は伸治の来る前に家に帰ったのでその後の事は・・知りません。」 

彼の得意ネタ『あわてもの』を彷彿させるエピソードである。愛嬌があって罪がない。いいねえ。
文治は80歳まで生きた。 十代目桂文治の大名跡を継ぎ、芸術協会の会長を務めた。白髪で黒紋付きの高座姿は、昭和の名人の風格を漂わせた。特に五代目柳家小さん亡き後は、数少ない江戸前の滑稽噺の名手として存在感を示した。また、頑固だが邪気のない人柄は、多くの人に愛された。彼が寄席に通勤するために利用した西武新宿線では、女子高生たちから「ラッキーおじいさん」と呼ばれ、彼の姿を見るとその日1日幸せに過ごせると噂されたという。
七代目春風亭小柳枝とはまさに対照的、「長生きするも芸の内」を、身を以て示したと言っていい。

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