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2016年12月3日土曜日

圓朝襲名にまつわるエトセトラ・続き

先日「圓朝襲名にまつわるエトセトラ」という記事を書いた。
その中で春風亭小朝の圓朝襲名の話題に触れ、この話を「筋目がよくない」と言ったことについて、あれからあれこれ考えている。
その時、私は小朝の大師匠八代目林家正蔵について「柳派に近い」としたが、それがちょっと引っかかっているのだ。確かに正蔵が敬愛したのは三代目柳家小さんである。そして四代目小さんの前名蝶花楼馬楽を襲名し、四代目の死後は後の五代目小さんとなる小三治と、小さん争奪戦を繰り広げた。しかし、彼が三代目小さんの門下になった時、名前は一朝爺さんから貰った三遊亭圓楽のままだった。小さん名跡を争ったものの、彼の芸そのものは三遊派であり、小三治が小さんになったのは必然だったと私は思う。とすると八代目正蔵は言うまでもなく、その孫弟子である小朝も、三遊派の流れを汲んでいると言っていいか。
それから小朝の弟子が、橘家圓太郎を襲名していたことを失念していた。橘家といえば、これはもう紛れもなく三遊派の名前である。しかもその初代が三遊亭圓朝の実父だったことを考えれば、小朝の圓朝襲名もまんざら「筋目のよくない話」でもない。 

小朝の圓朝襲名が話題になったのは2008年頃である。「東京ポッド許可局」というブログの「小朝論補足」という、当時の記事が残っている。
それによると、小朝は圓朝襲名に向かって、数々の布石を打ってきたという。
小朝は師匠五代目柳朝を早くに失い、後ろ盾がない。そのため自力で這い上がるしかなく、着々と政治力を養って来た。
真打の弟子にはあえて春風亭の名前を与えず、橘家圓太郎、五明楼玉の輔といった古い名跡を襲名させた。
九代目正蔵・二代目三平の襲名をバックアップすることで、妻の実家海老名家の支持を取り付ける。
2003年には六人の会を結成。立川志の輔(立川派)、笑福亭鶴瓶(上方落語協会)、柳家花緑・林家正蔵(落語協会)、春風亭昇太(芸術協会)と各団体の重要人物を抑えた。
1990年の博品館劇場1ヶ月に及ぶ独演会、1997年の日本武道館での独演会で圧倒的な集客力は証明されている。自作の新作を口演することで、圓朝という名にふさわしい創作力もアピールできた。
どれも圓朝襲名という壮大な詰将棋に向けて積み重ねられてきたものだ。10年後には具体的な段階を迎えるだろう。 

以上がその要約だが、なるほどまるっきり荒唐無稽な話でもない。それなりの説得力を持っている。
しかし、ここにあるのは「仕掛け」だけだ。大事なことが抜けている。それは、誰もが納得する芸の力だ。それを獲得しようという気迫が、今の小朝にあるだろうか。「越路吹雪物語」や「カラオケ葬」などの新作が、圓朝にふさわしい創作力を証明するものになるのだろうか。 

前述のブログの筆者はこう言っていた。
今の小朝には高座で「本気」になるモチベーションがない。逆に言うと、彼が「本気」になった時、それは「準備がすべて整った」ことを意味する。その時を待ちたい、と。 

六代目三遊亭圓生は「芸は砂の山だ。いつも少しずつ崩れている。一歩登ったら、実は一歩崩れている。そこにとどまれば落ちてしまう。だから、芸の山を登るのならば、崩れるスピードより早く登らなければいけないのだ」と言ったという。
詰将棋のように政治力で準備を重ね、機を見て「本気」を出す。そんなことが可能なのか。落語家にとって全盛期ともいえる50代のほとんどを、プレーヤーとしてよりプロデューサーとしての活動の方に重点を置いてきたことが、小朝にとってプラスになったのだろうか。
小朝の才能は誰しも認める所である。華麗な語り口、色気、洒落たセンス、彼の落語が一級品であることに間違いはない。でも、どうしてだろう。私は彼の落語に「感心」はしても「感動」はしない。

「具体的になる」という10年後が、間もなくやって来る。春風亭小朝の「本気」は果たして訪れるのか。

 ― ふと小朝のブログを覗いたら、来年は久し振りに寄席でトリをとるという。小朝の「本気」を期待したい。圓朝襲名はどうでもいいが、小朝のように名人になれる人には名人になって欲しいと、私は思う。

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