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2016年12月23日金曜日

四代目三遊亭小圓遊

長男がせっせと「笑点」を録画しては、早起きして観るのを楽しみにしている。彼は、この間地元の文化センターで聴いて以来、林家たい平のファンになったようだ。かくいう私も、長男と同じぐらいの頃には、「笑点」が大好きだった。
私の頃は、司会が三波伸介。大喜利のメンバーは、三遊亭圓楽、三遊亭圓窓、桂歌丸、三遊亭小圓遊、林家木久蔵、林家こん平といった面々。中でも歌丸、小圓遊のバトルが人気を呼んでいた。

四代目三遊亭小圓遊。昭和12年、群馬県前橋市に生まれ、中学の時に東京に転校して来る。高校を中退して、昭和30年、四代目三遊亭圓遊に入門、金遊の名を貰った。
ちなみに圓遊一門は、笑遊、金遊、千遊、万遊といて、師匠の圓遊を加えると、その頭文字が「しょう・きん・せん・まん・えん(賞金千万円)」となる。
昭和43年、四代目小圓遊を襲名して真打に昇進した。
「笑点」ではキザを売り物にしていた。 立川談志は著書の中でこう言っている。
「小円遊の金遊に、テレビの『笑点』であのキャラクターをつけたのは、私だ。なに小円遊ばかりではない。全員につけた。円楽は物識りでいけ、こん平はバカでいけ、歌丸は常識的に、というふうに彼らの地を生かしてキャラクターを鮮明にさせたのが当たった。(中略)小円遊はキザの小円遊でいけ、と。『別れた時に一言』なんて司会の私が聞くと、『別れなければまた逢えないじゃないか』と言わせた。」(『談志楽屋噺』・文春文庫)
小圓遊の渾名は、談志曰く「韓国のヤクザ」。その容貌で小指を立てて「ボクちゃん」なんて言うのだから、これはウケた。
当時、「笑点」の演芸コーナーで小圓遊の落語を聴いたことがある。ネタは『権助魚』だった。ドスの利いた声、男っぽい口調。骨格の太い本格派で、上手いと思った。この人の落語は、大喜利のキャラクターとはずいぶん違うなあと、子ども心に思ったものだ。
人気が出るにつれて、客の方が高座の落語の方にまでキザのキャラクターを要求してくるようになった。
若くして売れた人にはこの手のエピソードが多い。八代目桂文楽は、若手真打の頃『明烏』しか演らせてもらえなかった。その弟子で、後に三升家小勝になった桂右女助は、自作の新作『水道のゴム屋』で売れた人だが、寄席で古典落語を演ろうとして、客に「お前はゴム屋やってりゃいいんだ!ゴム屋やれ!」と強要されたという。
小圓遊の場合、枕でキザをやると、爆笑を生んだ。しかし、本題に入ると落ち着いてしまう。小圓遊はそのギャップに苦しんだ。そして彼はその苦悩を酒で紛らせた。酒量は増し、それが命取りになった。
昭和55年10月4日、公演先の山形で急死。動脈瘤だか静脈瘤だかが破裂したのだと記憶している。43歳の若さだった。
因縁めくが、初代小圓遊は旅先の尾道で32歳で死亡。三代目は北海道巡業中に腸チフスで夭折(年齢は正確には分からないが、30そこそこだったという)した。何と小圓遊代々の4人のうち3人までもが、旅先で早死にしているのである。 

私の手元に小圓遊のCDが1枚だけある。「落語名人全集」シリーズの18で、「現代艶笑話(1)・現代艶笑話(2)」という企画もの。バレに近い小噺をいくつも並べている。女優の声が合いの手に入り、イヤホンをしても、ちょっと家族の前で聴くのは憚れる内容だ。
この、「落語名人全集」と銘打たれたCDに、落語が1本も入っていないことが口惜しい。テーマに沿えというのなら、『紙入れ』とか『短命』とか、艶っぽい落語だっていくらでもあるじゃないか。せめて半分は落語にして欲しかった。小圓遊はそれを望んでいたと思うのだ。

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