この間、記事にした雷門福助の話が面白かったので、物置から川戸貞吉の『初代福助楽屋話』(2010年7月 冬青社刊)を持って来て読み直している。これが面白い。
雷門福助。本名川井初太郎。明治34年(1901年)10月21日、本所深川の生まれ。陸軍大臣の運転手、活動弁士などを経て、六代目雷門助六に入門し福助を名乗る。二つ目昇進後は音曲師として活動する。昭和の初め頃、名古屋に住み着いた。戦後は宿屋の主人をしながら、名古屋在住の芸人団体「名古屋互助会」の会長を務め地元で活動していたが、昭和58年12月に東宝名人会に出演したのがきっかけで、度々東京の高座に上がるようになり、「落語界のシーラカンス」と呼ばれ脚光を浴びた。昭和61年(1986年)6月11日、86歳で没。
東京時代は睦会に所属、八代目桂文楽のもとに稽古に通った。その人と芸に心酔し、終生
慕う。福助にとって文楽は、文楽にとっての三代目三遊亭圓馬のような存在だったのだろう。(『古今東西落語家事典』では、助六の弟子になったのが22歳頃としてあるので、大正11年頃の入門なのだろうが、著書では大正8年頃には文楽の所に出入りしていたというから、正確な入門時期はよく分からない。)
この本では大正から昭和初期にかけての貴重な証言が多い。今回は、笠間稲荷神社の奉納額にある、睦会の芸人たちの人物評を紹介しよう。
まずは睦会のボス、五代目柳亭左楽から。
「五代目の左楽さんてえ人はあたしとおんなじで噺はあんまり上手くありませんでした。〝上手いなア〟と感心したことは一度もありません。『子別れ』『小言幸兵衛』などみんなが演るようなネタを演じていましたが、おもしろくないんですよ。
売り物はといえば『乃木将軍』。トリのときのネタは必ず『乃木将軍』でした。またお客のほうでも『乃木将軍』を注文していましたね。その『乃木将軍』は伊藤痴遊さんに稽古してもらった噺なんです。上手くはなかったが、あくまで会長で大看板。どうしてあんなに偉くなったのか。やっぱり睦会を上手にまとめていったからなんでしょうね。」
これに先立ってこんなことも言っている。
「(前略)このようにどんどん睦会が大きくなるにしたがって、左楽さんは楽屋でデーンと大きな顔をするようになってきました。ひとしきりの間というもの、あたし達若造連中はそばへも寄れませんでしたよ。威張ってて。大将ンなっちゃったわけですね。」
福助からすれば、五代目も横柄な人だったということか。ただその当時、福助は前座で五代目は会長、地位には天地ほどの開きがあった。
左楽の札の隣にあるのは、朝寝坊むらくになった柳亭柳昇。
「〝フェー〟〝フェー〟ってしゃべりかたアする面白い噺家でした。酔っ払いと火事の噺が得意でね。(中略)あたしは好きでしたね、この人が。〝稽古してもらおうかな〟と思ったことが何回もありました。でも大のけちんぼう。あたしがまだ前座の頃ですが、何百万円ッて貯金してたんです。ところがその貯金していた銀行が潰れちゃったんですね。それで頭がポーッとなって、頭がおかしくなっちゃった。そのせいで駄目ンなってしまいました。」
八代目桂文楽の『富久』での「小便して寝ちゃおッ」というクスグリは、どうやらこの柳昇が源流らしい。
音曲師の柳家枝太郎は、八代目春風亭柳枝の父。
「大川端の花火を歌い上げる〝両国〟が絶品で〝両国の枝太郎〟と言われていたほどの音曲師です。あたしも都々逸やなんかを教えてもらいましたが、なんとも不思議な人でした。」と言って、小用の後でも紙を使う癇性ぶりを紹介している。
『古今東西落語家事典』によると、この人の最期は太平洋戦争末期の空襲で米軍の焼夷弾が家を直撃し、嫁と孫をかばって爆死するという壮絶なものだった。
『古今東西落語家事典』では昭和初年以降不明だった雀家翫之助の消息が、福助の証言で明らかになる。
「この翫之助のことも、死ぬまであたしが面倒見てやったんです。この男はあたしとおなじように、しばらく東京から姿を消してたン。それが何年かぶりで立川ぜん馬さんと一緒に東京の寄席に出て、二人とも真打ちになりました。
真打ちになったものの、いろいろあったんでしょう。名古屋へきたんです。しょうがないから幇間にしましてね、文長座へも出してたんです。あたしが川丈座に買われて九州のドサを廻ったりしてたときも、一緒に連れて行ったりしてたんですがね。
翫之助の売りものは『稽古屋』。最後に三味線を弾いて〝助六〟を踊ってました。色っぽい爺ィでどうにもしょうがない奴でした。」
残念ながら没年は明らかにされていないが、それでも貴重な証言だと思う。
柳亭芝楽については「この人は五代目左楽さんのとこにいた人ですが、噺はあんまり上手くありませんでした。吉原で女郎屋をやってた人です。」とのこと。
六代目林家正蔵(俗に「今西の正蔵」と言われた)は、「幹部の中でいちばんのうるさ型で理屈屋」。下谷のとんぼという寄席で、福助が『道灌』を演じて高座を下りて正蔵に挨拶した際、皆の前で「今、演ってたのは落語かい?」と言われたエピソードを紹介している。
神田伯山は清水の次郎長で人気を博した講釈師。
「この伯山てえ人は傍に人がいると銭ィくれるんですよ。サシでいるとなんにもくれないン。(中略)柳家小半治の兄弟子の柳家金三ッて奴がよくいってましたよ。
『おい、先生ンとこへ行こうよ、脇に人がいるから』」
初代睦会会長、四代目春風亭柳枝。(後に華柳という隠居名を名乗った。)
「華柳さん(四代目柳枝)はおとなしくて品のいい噺家で、
〝おい、お前〟ッて調子じゃアないんです。〝あなたねェ〟ッていうような口調。俳句や川柳に熱中してました。それにお茶を立てたり・・・。意地悪なんかぜんぜんしませんでした。楽屋にいても大きな態度なんかまったくしないんです。」
左楽の権力者然とした態度とは対照的。趣味人、文人という風情が漂う。
寄席については「四谷の喜よしと人形町の末広、芝の恵智十に神楽坂の演芸場、この四っつが親席なんです。こういう寄席へ上がれればいいんですが、(後略)」と言っている。
まるで大正から昭和初期にかけての東京の落語界を冷凍保存して、そのまま解凍したようだ。まさに「落語界のシーラカンス」の面目躍如と言っていい。何より当時の芸人たちの一人一人の人間性が立ち上がってくるのが楽しい。
それにしても、この記録を残してくれた、川戸貞吉氏の功績は大きいと思うな。