初代林家三平。言わずと知れた昭和の爆笑王である。
しかし、子どもの頃、この人の落語でひっくり返って笑った覚えがない。
私は田舎者なので、落語を聴くのはテレビかラジオでしかなかった。もちろん、三平は大スターだったから、聴く機会は多かった。ただ、内容がなあ。正月番組で演った小咄が、「坊さんが二人通るよ、和尚がツー」とか「車が衝突したよ、ガンターン」だもんなあ。子ども心にくだらねえなあと思ったよ。客席のおばちゃんのげらげら笑いに、そんなに面白いか?と心の中で突っ込んでいた。(ごめんね、嫌なガキだったんだ。)
その三平が脳溢血で倒れ、過酷なリハビリの末、寄席に復帰したのが、私が大学に入った年の秋だった。新宿末廣亭でトリを務めた高座を、落研の仲間で観に行った。私はそれほど乗り気ではなかった。(何しろ嫌なガキだったからね。)それでも、4年生の二代目紫雀さんが「絶対観ておいた方が良い」というようなことを言ってくれた。金原亭馬生の熱烈なファンで、古今亭志ん朝ばりの鮮やかな口調を聴かせてくれる紫雀さんがこう言うのだ。行ってみようという気になった。
この時、三平は『源氏物語』を落語化し、新境地を開く、と公言していた。もちろん、誰も本気にしていない。事実、「いづれの御時にか」を繰り返すばかりで、内容はいつもの三平だった。
でもねえ、これが面白かったのよ。入ってきた客に「そろそろお見えになるんじゃないかと思っていたところなんすよ」なんていう客いじりで、私はひっくり返って笑った。生の三平は、放送の三平とは違った。三平の必死のサービスが直接伝わってくる。三平の、人柄の良さが、誠実さがストレートに人の心を揺さぶるのだ。
あの、安藤鶴夫も「三平は生で聴くべきだ」というようなことを書いているが、まさにその通り。三平の生の高座を観て、私も、そうだ、感動したのだ。
病後のことだ。迫力は全盛期に及ばない。三平の目はとろんとして、生き生きしたところがなかった。復帰興行ということで、好意的な笑いもあったろう。でも、それでも、この日の三平は、掛け値なしに面白かった。全盛期なら果たしてどれほどだったか。三平恐るべし、である。
しかし、その後は精彩を欠いた。本来の迫力、テンポを失った三平から、爆笑は遠のいていった。そんな折、弟弟子の月の家圓鏡(現橘家圓蔵)がめきめきと評価を上げていく。三平の高座が、結局のところ小咄の羅列であるのに対し、圓鏡は破天荒ながらストーリーのある落語を語ることができるという強みがあった。圓鏡は、四天王として、古今亭志ん朝・立川談志・三遊亭圓楽と肩を並べるまでになった。
復帰の翌年、三平の師匠、七代目橘家圓蔵が死んだ。葬儀委員長は惣領弟子の三平が務めた。圓蔵師匠は、私の所属していた落研の技術顧問をされていたので、私たちも葬儀の手伝いに行った。葬儀の終わりに挨拶に立った三平の、目が死んでいた。そのことだけ、私は強烈に覚えている。
その年の秋、林家三平死す。癌だった。
三平のことについて、書かれたものでは色川武大の『林家三平の苦渋』(『寄席放浪記』に収録)、録音では立川談志の『三平さんの思いで』(『席亭立川談志のゆめの寄席』に収録)が双璧。是非、読んで聴いて欲しい。
0 件のコメント:
コメントを投稿