落語の「明烏」といえば、八代目桂文楽の代名詞と言ってもいい、十八番中の十八番である。今回はその「明烏」について書いてみようと思う。
まずはマクラから。
しずしずと高座に現れた文楽は、深くお辞儀をしてお決まりの口上を述べた後、「弁慶と小町は馬鹿だなあ嬶(かかあ)」という川柳から語り出す。弁慶も小野小町も男女の営みを知らずに終わったとされる人物。夫婦の営みを終えた後の夫の、「こんないいことを知らなかったとは弁慶も小町も馬鹿だ」という感慨を詠んだものである。
「弁慶と小町は馬鹿だなあ、嬶。」と「弁慶と小町は馬鹿だ。なあ嬶。」と、二通りに読める。五七五に倣えば後者か。前者は夫ひとりの感慨であるのに対し、後者では側に横たわる妻の存在が濃厚に立ち上る。
私がこの川柳で思い出すのは、もうひとつ、吉行淳之介の小説である。昔、角川文庫から出ていた『鼠小僧次郎吉』という本の中に、表題作とともに「小野小町」という短編が収められていた。小町は絶世の美女でありながら、言い寄る男たちの求婚をすべて断ったことからあの川柳が生まれたのであるが、その理由として吉行は一つの俗説を挙げる。
「小町針」というのがある。これは糸を通す穴がない針のことで、小野小町も同様の身体上の欠陥があったというのだ。あの「百夜通い」の深草の少将が、小町の身体の秘密を知ってしまうのだが・・・、という話になるんじゃなかったかな。現物を失くしてしまったので、はっきりしたことは分からない。
「童謡」という短編を教科書で読んで吉行に興味を持ち、初めて買った彼の文庫本だった。高校生には刺激が強かったなあ。
川柳の後には、食わず嫌いの牛鍋の小咄を振る。これがまた、本当に旨そうで楽しい。
昭和43年(1968年)3月14日、国立小劇場で第五次落語研究会の第1回公演があり、文楽は当然のごとく「明烏」を出した。その時にはこんな小咄を冒頭に振った。
「昔、両国橋を渡りまして左ッ側に百本杭てえのがございました。ご年配のお客様はご存知でしょうけれども、あそこで釣りをしている人が随分ございました。
『(切迫した様子で)ちょっと伺いますがな、十七、八の娘がここに来やしませんか?島田に結っているんですがな』
『(釣り人、竿を見ながら)来た来た、来たね、あー来た来た』
『来ましたか?』
『あー逃げた』」
一息置いて、何事もなかったかのように「弁慶と小町は・・・」と続ける文楽に、客席は柔らかな笑いで応えた。(その映像を撮影していた川戸貞吉は、この小咄を聴いたのは「後にも先きにもこのときだけ」だと言っている。)
この時客席には、評論家の山本益博がいた。早稲田大学に入学の決まっていた山本は、叔母から入学祝に歌舞伎のチケットをもらい、国立劇場に行った。しかし、小劇場の「落語研究会」看板を見て、断然こっちを見たくなった。チケットは完売していたものの、窓口で必死で懇願している山本の姿を見て、東京放送の関係者が席を譲ってくれる。山本はその時の桂文楽の「いわゆる‟ご機嫌“な高座だが顔と眼は醒めている」「落語家の‟芸”というものを意識させた」高座に感動。以来、文楽を追いかけ、大学の卒業論文も「桂文楽」を選ぶ。(後にこの論文は『さよなら名人芸―桂文楽の世界』として上梓された。)
山本はCBSソニーから出たLPレコード『桂文楽全集』の監修もしたが、「明烏」は、この第1回落語研究会の録音を採用している。この高座は、山本にとって本当に特別なものだったのだなと思う。
ちなみに百本杭については、芥川龍之介が「大川の水」(岩波文庫『芥川竜之介随筆集』に収録)という随筆に書いている。
芥川は明治25年(1892年)3月1日生まれ、文楽は同年11月3日の生まれだ。二人とも同じ東京の空気を吸っている。芥川の「大川の水」の文章に、私は文楽の小咄と同じ匂いを感じた。
2 件のコメント:
川柳の団扇と申します。戯れに空桶亭傍迷惑と発します。日本語は噺家に教わった 貸本で雉子朗さんに遇ってから その昔 高座で 長屋中歯を食いしばる花見かな をマクラにふった若手がいて笑うことも出来ませんでした。よろしく。
いらっしゃいませ。こんなブログですが、またのぞいてみてください。今後とも、よろしくお願いいたします。
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