ページビューの合計

2011年2月21日月曜日

文楽と圓生

昭和40年、文楽は落語協会会長の座を三遊亭圓生に譲り、自らは最高顧問に就任する。
文楽が会長を務めたのは2度。昭和30年から32年、38年から40年の通算4年間だった。これは意外と短い。同時代の春風亭柳橋、後の柳家小さん、三遊亭圓歌の長期政権とは好対照である。
1回目は古今亭志ん生に譲り、志ん生が病に倒れると再び会長に復帰、圓生に繋いだ。落語の黄金期と言われた昭和30年代から40年代にかけて、昭和の3名人が途切れることなく会長職を務めたことになる。
圓生は戦後満州から帰国後、飛躍的な伸びを見せた。それまでは「皮ばかりで骨(肉だったっけ?)のない芸」とか「気障なばかりで下手」といった評価をされていたが、50代にしてそれまでの精進が花開く。
圓生の噺はある程度の持ち時間がなければ輝きを見せない。寄席の20分の高座では、なかなか真価を発揮できなかったが、昭和30年代のホール落語誕生で思う存分実力を披露する場を与えられた。また、一方で圓朝作の人情噺を発掘してレコード化し、ファンの喝采を浴びた。
同じ楷書の芸。後から急速に追い上げる圓生に対し、しかし、文楽は歯牙にもかけなかった。
8歳年下の圓生を文楽はライバルと認めていなかった。「私の噺は全て十八番。圓生は無駄ばかり」という言葉はそれを代表している。実際、弟子たちの証言によると圓生を子ども扱いしていたらしい。圓生が伸びてきた時は「圓生がよくなったよ。良いときは褒めてやんなきゃね。」などと言っていたという。(もっとも、春風亭小朝は、このような文楽の態度について、かえって圓生を強く意識していたことを物語っているのではないかと見ている。)
圓生もまた文楽に対しては批判的な言葉が多かった。(ただし、文楽存命中は畏怖の念の方が強かった。立川談志は、協会の会議で文楽へのちょっとした異議を唱えるのに、緊張にうちふるえる圓生の姿を見ている。)文楽の死後、高座で一瞬台詞を忘れ言い淀んだ圓生は「あたくしもおいおい桂文楽になる」と言って、満座の客を凍り付かせた。
だが、京須偕充によると圓生の自宅のレコードキャビネットには、レコードの文楽全集が大切に保管されていたという。正直なところでは、文楽に対する敬慕の念を持っていたのだろう。ただ、文楽に認められていなかったという屈折が、圓生にはあった。
志ん生が高座から遠ざかり、文楽が世を去って、圓生は押しも押されもせぬ第一人者となる。昭和48年3月(志ん生の死の半年前である)、圓生は、天皇皇后両陛下を前に落語家初の御前口演をするという栄誉に浴する。八代目林家正蔵は、それから後、圓生は変わった、寛容さがなくなった、と書いている。

2 件のコメント:

torahati さんのコメント...

圓生師は文楽師に畏怖の念を抱いていたが、認められなかったという屈折があっただという事が
伺われました。

文楽師が小さん師を預かり弟子にしたり、孫弟子である林家三平師や月の家圓鏡(後の圓蔵)師の
売り出しに一躍買ったりしたのに対し、
圓生師は「昭和の名人に相応しく」「芸」は見事だが、
「自分の芸」と云うものから外れると認めない、この「狭さ」が「分裂騒動時」にも
脱退者を招き、上手く行かなかったと云われております。

若しや、三平 圓鏡が圓生一門にいると「あれは落語じゃありません」と一喝していたのでしょうか?

談志師が吉川潮氏との対談で、
文楽「寄席と云う処は三平の様な化け物が出ないといけません」
圓生「三平の芸は草花です、草花はすぐに枯れてしまいます、その分古典は松の木です」
と震えながら言い切ったと云われております。
圓生師は弟子でも自分が嫌と思うととことん冷遇したりする描写が弟子である圓丈師の『御乱心』にも
描かれており、「出来が悪いからお前は要らないと、そこまで云えるか」と思ったとありました。

文楽師は「ある程度人を認めていく」のに対し、圓生師は「嫌いなものは嫌い」という事だったのでしょうか?

元々、文楽師は畏怖の念を抱いていたのに対し、志ん生師は「下手(圓生師の基準で)」と思っていたのに、人気が出た事や後輩ながら追い上げてきた小さん師も良く思わず、正蔵や新作派の圓歌 馬風は下と見ていたのでしょうか?

唯、三平 圓鏡の師匠七代目圓蔵師を可愛がったのは興味深い処があります。 

densuke さんのコメント...

三平、圓鏡は「あれは落語じゃない」と言われたでしょうね。一門のさん生、後の川柳川柳がそう言われていました。
七代目圓蔵に名跡を譲ったのは、圓蔵が師匠の文楽に冷遇されていたからだったと思います。圓蔵は楽屋の金を持ち逃げしたりしてクビになり、戦後に再入門しました。戦後、文楽は五代目小さん襲名にかかりきりで、彼は放っておかれた状態でした。
「黒門町さんが捨てた男を私が拾ってあげました」ということが、圓生のプライドをくすぐったのではないかと、私は勝手に推測しています。
後はtorahatiさんのおっしゃる通りだと思いますよ。