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2011年2月22日火曜日

立川談志よ、古今亭志ん生を継げ(by八海)

うちの落研は年に2回大きな発表会があって、その際に「かぜ」と「与太郎」という機関誌を出していた。そのうちの「かぜ」の方は印刷屋で刷った本格的なものであった。
それは4年の時だった。同輩の八海君が私に言った。
「『かぜ』の原稿で収まりがつかなくなっちゃったんだ。伝助、この後を書いてくれよ。」
原稿を見ると、冒頭からこんなことが書いてあった。
「立川談志よ、古今亭志ん生を継げ。」
いやあ、インパクトがあったなあ。六代目志ん生を継ぐのは息子の志ん朝だと、誰もが信じて疑わない状況で、暴論とも取れる内容だった。しかし、読み進めていくにつれて、私には、それが、あながちただの暴論とは思えなくなった。それどころか、八海にやられたなあという思いが強くなった。
私はその後を受けて、こんな風にまとめた。
「志ん朝は文楽を継げばいい。そうして我々は新しい文楽・志ん生の鍔迫り合いを見るのだ。」
あれから30年近い時が経った。その後の二人の辿った道を思うと、感慨深い。
端正で艶やかで明るい大輪の華を咲かせた志ん朝は、今や多くの人が文楽の系譜と認めているし、人間の業を余すところなく描き、既成の枠に収まらない名人となった談志は志ん生の系譜にあたるだろう。(もっとも、志ん朝は文楽よりも伸びやかで、談志は志ん生よりもロジカルだ。もちろん、それは彼らが生きた時代性による。)
また、志ん朝が周囲に気を配り心地よくさせながら統率力を発揮したことは、そのまま文楽の生き方に重なるし、談志のあくまで自分のやりたいようにやるという生き方は、志ん生そのものに映る。
志ん朝が志ん生のDNAを受け継いだ息子で、談志の方は五代目小さんを通して文楽の孫弟子であることを考えれば、芸というものの妙を、今更ながらに感じずにはいられない。
彼らは志ん朝・談志のままだったが、結局、私たちは新しい文楽・志ん生の鍔迫り合いを見ることができたのではないか、とさえ私には思えるのだ。
八海君の慧眼に、改めて感じ入る。
大福さんの文章を読みながらあの頃を思い出し、ふとそんなことを考えた。

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