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2018年11月30日金曜日

市丸小川店 ランチの天丼


市丸小川店の天丼。
たまーに天丼が食いたくなる。そういう時にはここ。
鉾田の天ぷらの老舗、市丸の支店。開店して20年ぐらいにはなるか。
海老2本、鱚、ピーマン、茄子、さつまいもが載って、感動の600円(ランチ20食限定)。今回は私で完売でありました。
わしわし食う。旨し。この頃、揚げ物は胃がもたれるんだけど、大丈夫だったな。
ではもう1枚、アップで。ケータイだから、それなりの画像ですが。


2018年11月26日月曜日

3連休

3連休も、もう終わり。
初日は前回書いた通り、バスツアー。
私は首都高の景色が好き。
特に小菅から箱崎までの首都高6号線がいい。下町の風景をたっぷり堪能する。

荒川放水路を渡る。

この辺りから隅田川沿いを行く。

浅草吾妻橋。

羽横線もいいなあ。

多摩川を渡り川崎に入る。

やがて京浜工業地帯へ。


工場萌え。
2日目。長男のピアノの送迎の合間に恋瀬川の堤防を歩く。

愛郷橋。

恋瀬川河口から霞ケ浦を望む。

筑波山。

高浜の船溜まりは水門の向こうにある。
3日目は車検のためミニをディーラーに預ける。
代車はクーパーS。


ここ数日、家に猫が居ついている。トラ柄の子猫だ。
人の顔を見てにゃーにゃー鳴くくせに、近づくと逃げてしまう。それでいて、放っておくと、また何かを訴えるように鳴き始めるのである。
とりあえず、私の古い飯茶碗に残り物を入れておいた。するときれいに食べる。
段ボール箱にタオルを敷いて家の前に置いてみると、そこがお気に入りになったみたいで、もぐりこんで昼寝なんかしている。
オスかメスかは分からないが、私たちはミー太郎と呼ぶことにした。
居心地がよかったら、好きなだけいておくれ。



2018年11月24日土曜日

横浜バスツアー

懸賞で横浜へのバスツアーが当たったので、親子4人で参加する。
当たったのは1名なので、3人分は有料だけど。

石岡駅を朝の8時に出発。
天気は快晴。東京に近づく間、ずっと窓外には富士山がきれいに見えた。


渋滞もなく10時半には横浜へ着く。
関帝廟で記念写真を撮って、すぐに昼食へと向かう。




昼食は四五六菜館。麻婆豆腐、白身魚のチリソース煮、コーンスープ、チャーハン、手毬餃子、鶏肉カシューナッツ炒め、杏仁豆腐の充実のラインナップ。

麻婆豆腐が辛い。
旨いけど、妻や子は食べられなかった。

ビールを飲みたかったけど、そういう雰囲気ではありませんでした。

11時には昼食終了。食べ終えた者から自由行動に入る。
私たちは中華街をぶらぶら歩く。
途中、江戸清の豚まんを買って食べ歩き。


1個500円を二つ買って半分ずつ食べる。
旨し。


山下公園で海を眺める。風は冷たいが、日差しは暖かい。



山下公園でシーバスに乗り赤レンガ倉庫へ。約10分のクルーズ。



赤レンガ倉庫はクリスマスの準備をしていた。
3連休の初日だから人も多い。けっこう疲れた。



ツアー最後のシメは、市内某所にあるジュエリー工房見学。どうやらここがこのツアーのスポンサーらしく、立ち寄るのは必須みたい。
肩こり、冷え性に効く、遠赤外線ネックレスの説明を聞く。まあいくら熱心に説明されても20万円するネックレスはとても買えないわなあ。
子どもたちはスーパー炭素にハマったらしく大喜びだった。
6時半に石岡着。晩飯を買って7時には家に帰る。
忙しかったけど、楽しい1日でした。

2018年11月21日水曜日

秋の風景

今朝は今シーズンいちばんの寒さとなった。
水戸では初氷を観測したという。
冬がやって来るんだねえ。
今年の秋の風景を、ちょっとだけ振り返ってみようと思います。

登戸近くの南武線脇の小道。
ススキがいい感じ。

近所のコスモス。
この時は9月半ば。まだ日差しが強い。

彼岸花。
いちどきに一斉に咲いて、すぐなくなっちゃう。

中秋の名月。

部屋から柿の木が見える。

親父の菊が今年も咲いた。

古い供養塔の上にとまった赤蜻蛉。

秋の光線はいいなあ。

秋のハス田。


外浪逆浦。

こちらも同じ場所。

笠間の秋は菊がいっぱい。

ついこの間まで暑かったような気がするなあ。

2018年11月19日月曜日

川村かおり『Hippies』を聴く

久し振りに川村かおりの『Hippies』を聴いている。
平成の初め頃、私はこの人のアルバムをよく聴いていた。
まっすぐなロック。歌詞にはローリング・ストーンズやビートルズ、セックス・ピストルズ、ジャニス・ジョプリンなどが登場する。とても彼女と同世代の女の子が聴くようなアーティストではない。背伸びをして精一杯とんがった様が、健気でいじらしい。

 川村かおり(後にカオリ)。
 1971年1月23日、日本人の父親とロシア人の母親との間にモスクワで生まれる。
 11歳の時に日本に移住、学校で壮絶ないじめにあう。
 17歳で歌手デビュー。
 1991年『翼をください』がヒット。
 歌手のみならずモデルや俳優としても活躍するが、1993年に活動を休止。

私が彼女を知ったのも、この『翼をください』がヒットした頃である。この曲はCMで使われていたが、私は同時期にやはりCMソングだった『アイル・ビー・ゼア』に衝撃を受けた。革ジャンを着たボーイッシュな女の子が、古いソウル・ミュージックに日本語の歌詞をのせてシャウトする姿が、かっこよかった。
早速、私は『CAMPFAIRE』『Church』『Hippies』の3枚のアルバムを買った。
アルバム『Weed』(これも買った)を出した後、川村は活動を休止する。アルバム自体は、どこか散漫な印象だったが、オープニング・ナンバーの『見つめていたい』は、楽曲としては彼女の最高傑作だと思う。
  
 1995年に音楽活動を再開。
 1998年、ミュージシャンと結婚、2001年には長女を出産する。
 2003年に夫と別居(3年半後に離婚する)。
 2004年、乳がんを発病。
 2009年7月28日、死去。

活動再開後のことはよく知らない。いつの間にか「川村かおり」は「川村カオリ」に変わっていた。両腕に彫られたタトゥーが、私には何だかとても痛々しく感じられた。
やがて彼女の闘病と死をテレビで知ることになる。幼い娘を置いて死んでいく彼女が不憫でならなかった。(偶然だが私の長男は、彼女の娘と同い年である。)
私は彼女のラスト・アルバム『K』を買った。

『Hippies』は1991年発売、川村かおり、3枚目のアルバムである。私小説的傾向がいっそう強くなっている。
白眉は『Gypsy blood』。冒頭から「僕のママのパスポートは ロシア文字で書かれている」と自分がハーフであることを正面切って歌う。「帰る場所が何処なのか わからなくなる時もあるけど」とハーフであるが故の揺らぎを吐露しつつ、「愛すべき場所はふたつ この星と今いるここさ」と高らかに宣言する。そこには小中学校でのいじめや、母親の帰化を拒絶する政府の対応などへの思いを飲み込みながら、前を向いて進んでいこうという、息苦しいほどの覚悟が見て取れる。まさに絶唱と言っていい。
そして『39番目の夢』。青臭いまでにまっすぐな彼女の願いが、矢継ぎ早に繰り出される。(この時代に「原子力発電所がなくなりますように」なんて言っていたんだな。)
「一生唄がうたえますように 唄が僕の人生をきっと超えますように」
このフレーズを聴いて、思わず涙がこみ上げた。
死の約3ヶ月前、彼女は人生最後となるライブの舞台に立つ。そして3時間、見事に歌い切ったという。川村かおりは彼女の願い通り一生歌い続けた。そして私は今も彼女の歌を聴いている。彼女の歌は彼女の人生を超えている。
この歌はこんなふうに終わる。
「何の為に生きているかなんて一生わかりませんように 死ぬまでわかりませんように 死ぬまで」

少女は女になり母になって死んだ。しかし、彼女は一貫してロック・シンガーであり続けたのだ。



2018年11月13日火曜日

鎌足神社 根本寺

仕事で鹿嶋に泊まった。
少し時間があったので、ずっと行きたかった鎌足神社に行ってみる。
もちろん中大兄皇子とともに大化の改新で活躍した中臣鎌足ゆかりの神社。『大鏡』には、「鎌足のおとど、むまれ給へるは常陸国なれば・・・」という記述がある。その生誕の地に建てられたというのが、この鎌足神社である。
場所は、潮来から神宮橋を渡って、まっすぐ鹿島神宮の方へ向かう坂道の登り口、「鎌足神社」と看板が出ている小道を左折してちょっと行った辺り。少し分かりづらかったが、何とか辿り着く。



境内にあった石碑。

「大織冠藤原公古宅址碑」とある。
明治25年建立。

『藤氏家伝』では、鎌足出生の地は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)ということになっているが、あの藤原氏の始祖がここで生まれたと思うのも楽しいものだ。

近くに古刹、根本寺があるので、こちらにも行ってみる。
創建は推古天皇21年(612年)という。徳川幕府は寺領百石を給したが、幕末、元治甲子の乱の兵火によって、そのほとんどが灰燼に帰した。現在の本堂は昭和56年7月に落慶したものである。



ここは松尾芭蕉の『鹿島詣(鹿島紀行)』で有名である。
貞享4年(1687年)8月、芭蕉は鹿島で月見をしようと思い立つ。深川の自宅から舟で行徳へ渡り、徒歩で利根川のほとり布佐に着いた時には日暮れになっていた。漁家で小休止した後夜舟に乗り、鹿島に至った。
翌日は昼頃からあいにくの雨。これでは中秋の名月を見るのは無理だと半ば諦めつつ、根本寺前和尚仏頂を尋ねて泊まり込む。(仏頂和尚は芭蕉が敬慕する禅の師であった。)
明け方、空が少し晴れたところで和尚が起こしてくれた。ここで芭蕉は「月はやし梢は雨を持(もち)ながら」、「寺に寐てまこと顔なる月見哉」と詠んだ。


写真を見て、句碑の上部が欠けている、と思ったら、空が映り込んでいたんだな。
震災の影響かと思ってしまいました。


私は車で行ったが、道が狭い。次は時間をかけてぶらぶら歩いてみよう。