ページビューの合計

2020年9月30日水曜日

土浦散歩と石岡のおまつり

 今日で9月も終わり。

この前、土浦を歩いた写真を載せる。

まずは車の中から。R6号線。

荒川沖には藁ぶき屋根があった。

NTT前交差点。この一角、この建物だけ残った。


ほたて食堂。こういうアングルもいいねえ。

亀屋で昼飯食った後、亀城公園を抜ける。



中城通り。


この後、駅近くの古本屋で散財してしまい、100円しか残らず早々に土浦を引き上げたのでした。


今年は石岡のおまつりも神事のみ。そういえば、祭り見物もしなかったなあ。ではお祭り風景でも。

総社宮での神事。


獅子の先触れ、富田町のささら。

獅子の先陣を切るのは土橋町の獅子。





2017年のもの。神事を感じさせるものを載せてみました。

2020年9月28日月曜日

『名人落語全集』

先日、黒門町の『芝浜』が載っている古本を買って、嬉しさのあまり記事にしたところ、ゆうさんからのコメントで「落語はろー」さんのHPを教えていただいた。早速行ってみたが、宝の山だったな。

HP内の「落語速記編」に、黒門町の『芝浜』はあった。青空文庫版を見てみたが、私が読んだのと、一言一句違っていない。そうか、元ネタはここだったんだな。

初出は、昭和4年(1929年)から昭和5年(1930年)にかけて刊行された『名作落語全集』というシリーズ(全12巻)らしい。編者は今村信雄。記事によると「戦後にいたるまで様々に引用された」とある。

 

ここで私が買った昭和23年(1948年)版『名人落語全集』の演目を次に挙げてみる。

 

『芝浜』/桂文楽 『一日公方』/三遊亭小圓朝 『井戸の茶碗』/三笑亭可楽 『按ん七』/桂春団治 『かつぎや』/橘家圓蔵 『槌の音』/三遊亭圓生 『芝居風呂』/春風亭柳橋 『巌流島』/桂文治 『三軒長屋』/柳家小さん 『藪入り』/春風亭柳好

 

私がこのラインナップを見て、まず不審に思ったのは、橘家圓蔵という名前があったことである。この年にそんな落語家は存在しない。六代目圓蔵は既に六代目三遊亭圓生になっていたし、七代目圓蔵は、まだ月の家圓鏡だったはずだからだ。

それが、この本が、昭和4年~5年刊の『名作落語全集』の「戦後にいたるまで引用された」一冊であるとすれば得心がいく。それであれば、圓蔵は六代目圓生だし、圓生は五代目圓生だ、ということで間違いない。

昭和23年版『名人落語全集』と『名作落語全集』の演目のリストを見比べたが、『藪入り』/春風亭柳好だけが、『名作落語全集』に見当たらなかった。いずれにしろ戦後になって『名作落語全集』から抜粋して出したもの、と見てよいだろう

奥付を見ると、昭和23年(1948年)1010日印刷、昭和231015日発行、定価は80円(送料30円)、編者は「名人落語刊行会」とある。発行所は東京都神田区神保町にある清教社。古本市場ではよく見る名前のようだ。

演者の紹介や演目の解説は一切ない。落語の速記だけが並ぶ。造りとしては、かなりやっつけ仕事に近いな。

簡単に私の方で解説しておく。

 

桂文楽は八代目。1892年(明治25年)生まれ、1971年(昭和46年)没。「黒門町の師匠」と呼ばれた、昭和の名人。当ブログでは「桂文楽」コーナーがあるので、そちらをお読みいただきたい。

 

三遊亭小圓朝は三代目。1892年(明治25年)生まれ、1973年(昭和48年)没。二代目小圓朝を父に持ち、若い頃から将来を嘱望されたが、地味な芸のため売れなかった。稽古台として多くの噺家が彼のもとに集った。

『一日公方』は大工の市兵衛が「一日だけでも公方様になりたい」という夢をかなえてもらうお話。サゲ(「こいつは麻布で気が知れねえ」)が分かりにくく、今はほとんど演じられていない。大工の市兵衛が遊びに行くお茶の先生の所に公方様(徳川将軍)がいるという設定も無理があるよなあ。

 

三笑亭可楽は七代目。1886年(明治19年)生まれ、1944年(昭和19年)没。俗に「玉井長之助の可楽」。一般には受けなかったが、安藤鶴夫が名人と絶賛し、一部で高く評価された。「三代目小さんの影法師」と陰口を言われたものの、五代目小さんに稽古をつけ、結果的に五代目に三代目の遺風を継承させた。自宅の階段から落ちて死んだという。

 

桂春団治は初代。1878年(明治11年)生まれ、1934年(昭和9年)没。御存じ演歌「浪花恋しぐれ」の「どあほう春団治」。人呼んで「後家殺しの春団治」。天衣無縫、型破りな芸風で爆笑を取り、売れに売れた。「按ん七」は十八番ネタだった。

 

橘家圓蔵は六代目。1900年(明治33年)生まれ、1979年(昭和54年)没。御存じ昭和の名人、後の六代目三遊亭圓生。圓蔵時代は「皮はあるが肉のない芸」と言われ、評価されず不遇だった。

 

三遊亭圓生は五代目。1884年(明治17年)生まれ、1940年(昭和15年)没。その体型から「デブの圓生」と言われた。豪放かつ色気のある芸風で、五代目小さんは彼を「昭和の名人」の一人に挙げている。人形町末広の席亭は文楽が高座で『松山鏡』を演じるのを聴いて、「今は他に人がいないから文楽さんなんかが名人と言われているが、圓生さんと比べたらとてもとても」と言っていたという。六代目圓生の養父でもある。

『槌の音』は読んでみたら、七代目圓蔵師匠が得意にしていた『紀州』であった。

 

春風亭柳橋は六代目。1899年(明治32年)生まれ、1979年(昭和54年)没。大正昭和を通じて落語界のスターに君臨した。30代で芸術協会を設立。スケールの大きな芸風で、一歳下の六代目圓生が不遇時代に弟子になろうと思ったほどであった。

 

桂文治は八代目。1883年(明治16年)生まれ、1955年(昭和30年)没。俗に「山路の文治」「根岸の師匠」「家元」。江戸、大阪、京都の言葉を自在に操り高い評価を得た。五代目小さんはこの人を「昭和の名人」の一人に挙げている。四代目小さんの次の落語協会会長。晩年はその芸が「臭い」と言われ、評価を下げた。

 

柳家小さんは四代目。1888年(明治21年)生まれ、1947年(昭和22年)没。人望厚く戦後初代の落語協会会長を務めた。飄々とした語り口で滑稽噺を得意とした。大向こう狙った芸ではなかったが、俳味に溢れ通人の評価は高かった。五代目小さんも四代目を「昭和の名人」と讃え、敬愛してやまなかった。五代目の真打昇進披露興行の最終日、鈴本の三十日会に出演。『鬼娘』を口演後、楽屋で倒れ急死した。

 

春風亭柳好は三代目。1888年(明治21年)生まれ、1956年(昭和31年)没。華やかな唄い調子で売れに売れた。特に『野ざらし』と『ガマの油』を得意とし、寄席では注文が絶えなかったという。ラジオ東京で『穴泥』を収録後、鈴本に楽屋入りしたが、体調が急変、そのまま息を引き取った。

 

土浦の古本屋は売り場面積も広いし品数も多い。何時間でもいられるが、欲しいものが次々出てきて金が続かない。この本を買った日は結局、懐に100円しか残りませんでした。 

2020年9月27日日曜日

秋は来ぬ

 朝、昨日の残りの天ぷらで作った天丼、味噌汁。天ぷらの次の日のお楽しみ。

長男を自動車教習所に送る。ここで暮らすには車に乗れないとな。頑張れよ。

帰って来た長男にコーヒーを淹れてやる。

やっと前山の彼岸花が咲く。この頃は彼岸をすぎないと彼岸花が咲かなくなったな。




昼は焼きそば。旨し。

午後は長男の友だちが遊びに来る。

子どもたちが遊んでいる間、妻と買い物がてら、茨城空港空の駅「そらら」に行く。

二人で小美玉ソフトクリームを食べる。


イベントの弾き語り、『アンパンマンの歌』を聞きながら食べる。旨し。

夕食は、シューマイ、モツ炒め、茄子の煮びたしで燗酒。秋になると燗酒が旨い。


久し振りに晴れた。日が出ても暑くならなくなった。秋が来たんだねえ。

2020年9月23日水曜日

黒門町の『芝浜』

 以前、「文楽の『芝浜』」という記事を書いた。

川戸貞吉と雷門福助の対談で、文楽が『芝浜』を持ちネタにしていたということが語られており、しかもそれは、あの三代目桂三木助の『芝浜』の原型だったというのだ。

その辺りのことを、もう少し詳しく書いてみたい。では、『対談落語芸談2』より引用する。

 

福助 (※文楽が人情噺をやらなかった)それのひとつの証拠が『芝浜』ですよ。三木助が『芝浜』を演って賞をもらったのは、文楽さんの『芝浜』なんですよ。

川戸 ほう。

福助 文楽さんが咄家を呼んで、三日間『芝浜』を演った。そいで、「どうだい?」ッていったら、みんなが「結構ですね」ッて。

川戸 ええ。

福助 三日目に、ひとりいた奴が目ェ真っ赤にして泣いたんですね。それェ見て、「どうしたんだお前?」「へえ、どうもすいません」「お前泣けたのかい?」「すいません」「ああそうかい。お前が泣けるならお客は泣くから、俺ァもう『芝浜』はやめた」ッていって、そいでやめちゃうんですよ。

川戸 へえェ・・・。

福助 それで『芝浜』は演らなかったン。あたしァそれを、「兄弟こうなんだよ」ッて三木助から聞いたン。

川戸 ええ。それで三木助が「『芝浜』を師匠」ッていったら、「俺ァ稽古ァ嫌いだ」ッて、それをあいつがくどいようにいって、とうとう文楽さんが敗けて、『芝浜』を五日間稽古してもらったン。それで、あいつが賞をもらったんですよ。これァ三木助があたしにいったんですから。

(中略)

川戸 あのねェ、三木助の『芝浜』については、これは嘘か本当かわからないんですが、たしかこういった伝説が残ってんですねェ。

福助 どんな伝説ですか?

川戸 文楽師匠が『芝浜』を演ったと。

福助 うん。

川戸 したら「師匠の噺はセコだ」ッて、三木助がいったと。

福助 うんうんうん。

川戸 それで文楽さんは『芝浜』をやめちゃったと。

福助 あははは、たいへんな間違い・・・そらァあいつが家ィ来ていったんですから、三木助が。

川戸 はあ。

福助 「お前賞をもらっておい、タロんなったのかい?」ッたら、「いや、タロにはならない」「『芝浜』だって?」「いや、あれは黒門町のネタだよ」ッていって、いまの話をあたしにしたんですよ。

 

福助の話は今までの定説をひっくり返すようなものが多く、「本当かよ」と思うことも間々あるが、この話は印象的だった。

ただ、この『芝浜』については、文楽自身の口からこんなエピソードが披露されている。では『落語藝談』(暉峻康隆)より引用する。

 

 それから「芝浜」です。うちで稽古している時分です。いまの円生や正蔵がみんな家へ集まって、これからやりたい咄をみんなでやるんです。あたくしが「芝浜」を研究していて、どうしてもできないんです。きょうこそはひとつ、ちゃんとやろうと思っていると、三木助が聞いていていましてね、

「どうだい、おい。これ、ものになると思うかい」

「師匠、だめだ」()

「だめかい」

「うん。肝心なところがいけねえ」

「それはどういうわけだ、教えてくれよ」

と言ったら、「一例がこういうことがありました」というんで話してくれました。

「あたしが商売人のばくち打のやくざの仲間へはいって暮らしている時分に、一文無しになっちゃって、次の二畳かなにかの座敷にこうやって寝てると、『おい、どうしたい』と言って、くすぶり同士が、『おれもうだめなんだよ』『おまえ、いくらかねえか』『五十銭しかねえ』『五十銭貸してくれ』『おめえに貸しゃ、おれ湯へへえることもできねえ』『まあいいから貸してくれ』というんで、その五十銭張ったために、夜中から朝までに、側中の銭をそっくり取っちゃったという話。そのときのうれしさが、あたしには忘れられない。だから、あんたがいまやった『芝浜』の、あのお金を拾ったときのうれしさ、そこのうれしさが足らない」と言うんです。その気持ちが足らないと。

 

川戸の言う「伝説」は、実は文楽自身から出た話だったのだ。

福助はさらに「だから、文楽さんは、いっぺんも高座にかけてませんよ、『芝浜』は」と言っているが、都家歌六は雑誌『落語界』の「桂文楽レコード・ガイド」という文章の中でこう書いている。

 

 これ以外かつてレコード化されなかったものには、「小言幸兵衛」「鶴満寺」「品川心中」などがあり、録音されてはいないが「芝浜」も上演されているし、私の前座当時の記憶として「野ざらし」「お若伊之助」はたしかに聞いている。

 

歌六は文楽が『芝浜』を口演したことを明言している。ただ、いつどこで口演したのかは示してはいない。

では、文楽の『芝浜』とはどのようなものだったのだろうか。

それを、実は最近手に入れたのだ。

土浦の古本屋にそれはあった。昭和231015日、清教社という出版社から発行された『名人落語全集』という本の中に、桂文楽の『芝浜』が収められていたのである。

それがこれ。

なんと巻頭を飾っているのではないの。

3000円、すかさず買っちゃいました。

内容については、次の機会に譲ります。

2020年9月21日月曜日

亀屋のポークソテー


 土浦、亀城公園隣、亀屋のポークソテー。1400円。奮発しました。

この昔ながらの食堂で、最高峰に君臨するメニューが、このポークソテーである。

旨いなあ。厚い豚肉が、私は好き。

ではアップで。



長年土浦の味を支えてきた名店。かつ丼が有名だが、どれも美味しい。

またレトロな雰囲気がたまんない。食は総合芸術なのだよ。



お腹いっぱい。大満足。

では久し振りに土浦の街をぶらぶら歩きましょうかね。

2020年9月19日土曜日

彼岸の入り

 朝、パン、牛乳、ハムステーキ。

次男土曜授業、駅まで送る。妻は仕事。

長男とコーヒーを淹れて飲む。

レコードを聴く。ビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』、ドノヴァン『グレイテスト・ヒッツ』。


網戸に雨蛙。


この間、長男をバイトに送った時、車の中に雨蛙が入ってきた。雨蛙は車のダッシュボードにいて、石岡まで往復して来た。帰ってから車から出したけど、「かえるくんとドライブ」というのも悪くなかったよ。

長男と買い物に行く。鉾田で饅頭とキムチを買う。


お彼岸。父と長男と墓参り。


今年は彼岸花の咲くのが遅い。まだつぼみだったが、1株だけ生えているのを見つけた。


昼に長男は緑のたぬき、私は赤いきつねを食べる。

午後に妹と甥が来る。甥が肉を買って来てくれて晩飯は焼肉にする。ビール、赤ワインを飲みながら、焼きそばまでしっかり食べる。旨し。甥に御馳走になる日が来たんだなあ。

子どもたちは甥にゲームで遊んでもらった。よかったねえ。

食後にちょっとだけアイリッシュウィスキー。

今日からお彼岸。「暑さ寒さも彼岸まで」というけど、昨日の暑さとは打って変わって涼しかったな。暑いのはもういいよ。



2020年9月16日水曜日

神崎町と幕末の志士

 先日、千葉県神崎町に行った時、ちょっとだけ歩いた。

利根川の水運で栄えた町。ここはその名も河岸通りである。






水戸藩幕末の天狗党の資料を漁っていたら、神崎町が出てきた。清河八郎という勤王の志士が、神崎に来た記録がある。

「清河八郎、水戸藩の士天狗と称するもの境外に脱し金穀を募り横浜を襲撃せんとするを聞き、其の形勢を伺はんと欲し一僕を率へ、佐倉、酒々井、成田、飯岡を経て神崎に至り、同志村上政忠に会し、始めて石坂宗順に交る。二子と相携へて佐原を経、舟に乗じて潮来に至り、天狗党の酒楼に飲むを知り、之に会せんと欲す。天狗辞して遭はず。詩人宮本茶村を訪ひ時事を談ず。神崎に泊する三日にして江戸に帰る。二月、別に天狗なるもの与に為すあるに足らざるを以て別に今年八、九月の間を以て尊攘の挙に出でんとす。」

清河は水戸の天狗党が横浜襲撃を企てていると聞き、連携しようとして神崎まで来て、潮来で彼らと接触しようとしたが不調に終わったらしい。

清河八郎(1830~1863)は庄内藩出身の志士。尊攘運動に奔走する一方、京都で浪士隊を募り新選組結成への流れを作った。幕府を利用しながら尊攘の先駆けとなるという奇策を弄せんとし、近藤勇らと袂を分かつ。1863年4月、江戸で幕府の刺客、佐々木只三郎らに暗殺された。

水戸の尊攘派が横浜襲撃を称して軍用金の徴発を始めたのが文久三年(1863年)だから、清河は神崎から江戸に帰って間もなく殺されたことになる。

そんなことが、この町にあったんだねえ。


時事ネタ。

我が国の首相が代わった。


秋田県の農家に生まれ、高校卒業後東京に出て就職、大学の二部を卒業し、地縁も血縁も地盤もない横浜で政治家を志した、「たたき上げ」の人だという。

以前、私は、この人が権力の中枢に座った時にこの経歴を知って、故野中広務氏のような存在になってほしいと思った。(落研の後輩と同じ高校を出ていたし)しかし、甘かったな。

苦労した人は二つのタイプに分かれる。弱者に優しい人と弱者に厳しい人だ。後者は「自分は苦労してここまで来た。弱者に甘んじているのは努力が足りないからだ」と思うらしい。

この「たたき上げの人」は、今までの言動を見ると、どうやら後者のようだ。沖縄や批判的な女性記者などへの対応からは「政治技術として「いじめ」を使うことをいとわない政治家」(朝日新聞・社説余滴「すがすがしくおめでたい」より)の姿が透けて見えてくる。

いずれにせよ、前政権をそのまま引き継いだような形で、新政権は始動した。それをお祭り騒ぎで迎える人たちが、またいっぱいいるねえ。「こっちの水は甘いぞ」と言っているように見えなくもないな。



2020年9月14日月曜日

渡辺直人選手お疲れさまでした

 楽天ゴールデンイーグルスの渡辺直人選手が今季限りで引退をするという。松坂世代の39歳。でも、松坂大輔は高校時代にはこの選手のことを知らなかったにちがいない。

茨城県立牛久高校の出身。中学時代は軟式野球をしていた。高校での最後の夏は県ベスト16だった。

大学は城西大学へ進む。城西は有名無名を問わず、広く練習会に参加させていた。

それからノンプロの三菱ふそうを経て、2006年、大学生・社会人ドラフト5巡目で楽天に指名された。(同じ年、あのニューヨークヤンキースの田中将大が駒大苫小牧から楽天に入団している。)

知将野村克也に見出され、ショートのレギュラーを獲得する。以来、堅実な守備と勝負強い打撃で楽天の中心選手として活躍した。

2010年、横浜ベイスターズに移籍。その後、西武ライオンズを経て、2018年、古巣楽天に復帰した。今年からは兼任で打撃コーチを務めていた。

こういうのをたたき上げというのだ。朝日新聞で言う、まさに「派手さはないが、求められた役割を堅実にこなし、けがをしても隠してプレーしてきた」選手だった。昨季、春先に右足首を脱臼。それでも彼は試合に出た。テーピングを繰り返したため、かぶれがひどかったという。

「2010年オフに楽天から横浜(現DeNA)に金銭トレードで移る時、楽天の選手たちが報道陣の前で泣きながら惜しんだ。「スポ根」と人情なんてそぐわないと言われかねない時代に、人望が厚く、人間的な魅力にあふれた選手だった」という朝日新聞の文章に、おれは胸が熱くなったよ。

茨城県からも多くのスター選手がプロに進んだ。しかし、同時代の誰よりも渡辺選手はプレーし続けた。野球は人間がするものだ。人間性の素晴らしさは何よりの宝であり、それが渡辺選手の最大の武器だったのだろう。

渡辺直人選手、お疲れさまでした。指導者としてますます活躍してくれることを期待します。




2020年9月13日日曜日

涼しい週末

 昨日の日記。

朝、マフィン、牛乳。涼しい。

妻は仕事。長男が教習所に通い始め、その送迎。

図書館に行く。『ジョージ・ハリスン自伝 I・ME・MINE』、『水戸朋党の争い—諸生党からみた記録—』(大録義行・筑波書林)を借りる。

昼はざるうどん。

午後はごろごろしながら本を読む。雨、けっこう激しく降る。

『ジョージ・ハリスン自伝』は厚いわりに中身がスカスカだったな。結婚生活なんかほとんどスルー。最初の妻、パティが親友エリック・クラプトンとできちゃった話とか、もうちょっとインタビュアーが突っ込んでほしかった。

夕方、長男のバイトの送迎。

夕食はアジフライ、白身魚フライ、冷奴でビール、酒。酒は義妹からもらった会津の酒。3年間熟成させたものだという。旨し。

食後妻と缶チューハイ。

寝しなにアイリッシュウィスキー。


今日の日記。

朝、御飯、味噌汁、スクランブルエッグ、ウィンナーソーセージ。

江戸や亭に出演。

ネタは『たがや』。反応は重かったが、よく聴いてくださっていたと思う。

随分涼しくなった。浴衣で出たけど、着物でもよかったくらい。

5時半頃帰る。

夕食はししゃも、トマトと卵の炒めもの、鶏つくね、塩辛で酒。

食後にアイリッシュウィスキー。


シメに、神崎町の猫。


2020年9月9日水曜日

川崎のアパートで飲む

酒を飲み始めた頃は、「一人で飲む」という選択はなかった。酒を飲むのは「ハレ」、つまり非日常のことだったからだ。

私が酒を一人で飲むようになったのは、大学の3年も最後の頃になってからだと思う。

今考えてみれば、あの辺りから酒を飲むのが、私にとって日常になったのだろう。

きっかけは、自分のアパートで飲むのが楽しいということに気づいたのである。

自分の好きな本があり、落語や音楽のテープがあり、それを自分のペースで思う存分楽しめる。しかもそこが、川崎の路地裏の四畳半という、私にとってはこの上ない空間だった。ここで飲むのは、確かに至上の時間だったのだ。

部屋の真ん中に炬燵やぐらがあり、そこには中学校卒業記念の笠間焼の湯飲みが置いてあった。万年床の敷布団を座布団代わりにして座っていた。手の届く範囲に、本やらカセットテープやらが積んであった。

当時は日本酒の二級酒が1200円ぐらい、サントリーホワイトも同じぐらいだった。日常的に酒を飲み始めた頃はそういうのを飲んでいたが、そのうち金が続かなくなって、サントリーレッドに替えた。レッドは800円だったと記憶している。

だいたいは学校帰りに麻雀打って、近くで晩飯を食べて電車に乗ってアパートに帰る。そこから腰を据えて飲み始めるのだ。

まずはビールの500ml缶を飲んで喉を湿し、笠間焼の湯飲みにサントリーレッドを注ぎ、氷を入れる。つまみは赤ウィンナーを炒めたのや、塩胡椒とガーリックパウダーで味をつけたスクランブルエッグや、でん六豆を好んだ。

飲みながら、手当たり次第に本を読み、落語を聴き、音楽を聴いた。酔えば酔うほど、どんどん神経が鋭敏になっていくような気がした。

太宰治、坂口安吾の小説。中原中也の詩。マンガは、つげ義春、高野文子、近藤ようこ、いしかわじゅん、吾妻ひでお、大友克洋。音楽は友川カズキ、三上寛、友部正人、泉谷しげる、宇崎竜童。落語では、黒門町、晩年の『つるつる』、志ん朝の『三枚起請』、小さんの『らくだ』、馬生の『うどんや』、談志や小三治の『芝浜』。・・・こんなところが、あの部屋では胸に沁みたなあ。

一回だけ一人で吐くまで飲んだことがあり、さすがにこれは自分でもまずいと思ったよ。

思い出すときりがない。改めて振り返ると馬鹿だったなあ。でも、あれが楽しかったんだ。あれが私の青春だったのか。随分暗い青春だが。

何度か載せているが、路地裏のアパートであります。
これも何度も書いていますが、この近くにはフォーク歌手の友川カズキが住んでいました。


この豆腐屋さんの脇の路地を入るとアパートがあった。豆腐屋さんも今はない。


2020年9月5日土曜日

暑い9月

 朝、パン、牛乳、ハム。

次男は高校の土曜授業。駅まで送る。妻は仕事。

散歩がてら床屋に行く。朝から暑い。


10時頃帰る。長男とコーヒーを飲む。

長男と図書館。『激派と民衆—大橋の天狗党始末—』(江川文展・筑波書林)、『口訳 常久肝膽夢物語—牛久助郷一揆の記録』(鈴木久・筑波書林)を借りてくる。

昼は「すぐおいしい、すごくおいいしい」インスタントラーメン。旨し。


図書館で借りてきた本を読みながら、うつらうつらしたり、マイルス・デイヴィスやチャーリー・パーカーを聴いたりする。

夕食は父が買って来た刺身、唐揚げ、カキフライでビール、酒。酒は妹夫婦にもらった木曽の地酒「中乗りさん」純米大吟醸、これまた旨し。


今日の朝日新聞の「朝日川柳」より。

世論まで勝ち馬に乗る軽さかな

都構想 俺が勝つまでやるじゃんけん

上手いよね。けど笑えない。すごい国になっちゃたな、我が国は。

2020年9月2日水曜日

祖母と浅草

 私の祖母は浅草に住んでいたという。

祖母は明治30年、関川村(現石岡市)に二女として生まれた。

大正8年、高浜町(現石岡市)の人と結婚し、翌月東京市浅草区に所帯を持つ。

この結婚生活は長く続かなかったようだ。

昭和16年頃か、先妻を亡くした祖父のもとに後妻として嫁いだ。だから、私との血のつながりはない。(しかし、祖母の弟が祖父の実家から嫁を貰っていて、この辺りからこの縁談が出たものではないかと思われる)

浅草に住んでいた祖母は、私が茨城弁を喋るのを嫌った。「・・・だっぺ」と言うと「・・・でしょう」と言い直された。小学校に上がった頃、「・・・でしょう」と言うと、級友から「女みたいだ」と笑われた。それ以後、私は意識して茨城弁を使うようにした。

祖母が住んでいたのはどの辺りだろうと思い、国土地理院で明治40年浅草区全図(復刻版)を買って来た。古い戸籍の写しを持っているのだが、これが手書きで癖が強く判読できず、それらしい町名もみつからなかった。でも、古い地図を眺めること自体が好きなので、まあいいか。



さて、昨日9月1日は関東大震災があった日だ。震災が起きたのは大正12年。その時、浅草は火の海となって甚大な被害を受けた。その時、祖母は浅草にいたのだろうか。

「あの地震はすごかった。バケツの水が(揺れで)半分になった」と祖母は言っていたが、それが浅草でのことか、田舎に帰ってからのことか、聞いた覚えはない。

今となっては聞くこともできない。祖母が亡くなって38年になった。祖母の命日は6月19日。太宰治の桜桃忌の日である。


暑い時期の浅草の写真。2011年のもの。