1969年(昭和44年)終戦記念日の朝日新聞に、戦時未帰還者の記事が載っている。この時点で、消息不明の未帰還者が2万2千人おり、そのうちの2千人の家族が「戦時死亡宣告」を拒んでいるという。
その中に、八代目桂文楽がいた。 記事の一部を引用する。
あと継ぎの期待をかけた長男並河敏男さんが敗戦直前、大陸に渡ったまま、まだ帰らない。「ウチの坊主といっしょに遊んだお隣の坊ちゃんが立派な店主になられて、みかけるたびに思いますよ。あれも無事でいれば三十九歳。明るい子でした。踊りも三味線もスジがよくって、ひとかどの芸人にゃなれましたよ」と文楽師匠(七六)は東京・上野の自宅で、アルバムを手に語る。
文楽は長年連れ添った寿江夫人との間に子を生すことができなかった。親戚から養子をもらい後継ぎとしたのが、この敏男である。
敏男さんは二十年七月初め、内地を離れた。十五歳だった。電波探知機関係の軍属を志願、採用されたのだ。門司港から船出する前、敏男さんから便りが届いた。なにがしかのお金が添えてあった。「うれしいのなんのって、初めて息子が送ってきた“おあし”でしょ。家中大騒ぎで、神だなにあげて・・・」。
それきり消息は途絶えた。二十一年帰還した同僚の話では、敏男さんは、栄養失調のため、奉天駅から列車からおり、近くの病院に収容されたという。厚生省の調査では、この病院の退院者名簿に敏男さんの名がない。調査資料の最後のページに「死亡確実」の朱印がある。
が、文楽さんは「最期をみとった人でも現れない限り」と、戦時死亡宣告の手続きを拒む。「坊主を親が殺せますか」。生きていると信じることが親の生きがいなのだという。
戦後24年経ったこの日も、文楽は敏男が技術者だったことで現地に残され「かみさんももらって、子どもでもつくって、親のあたしに顔向けができないってんで、手紙もよこさない」と半ば自分に強いるように信じていた。いや信じようとしていた。
文楽は戦後になって行者をしている四代目小さんの妹に見てもらった。すると彼女は神がかりになってこう言ったという。『あばらかべっそん』からその場面を引用する。
「息子さんのことは申し上げたくない。泡沫(うたかた)のようなもので、まだはっきりとはしないが—」
といっているうち、今度は倅の霊が来まして、
「いま私は金魚になっています。しかし幸せでいるから心配しないでください」
と奇妙なことを申しました。
宇野信夫は「塙保己一と桂文楽」という文章の中で、同じ場面を戦争中のこととしてこんな風に書いている。
四代目小さんの妹が雑司ヶ谷で、戦前から拝み屋をして相当にさかっている。
戦争中、文楽は見てもらったことがある。というのは、文楽の養子が、志願して出征した。安否を気づかっていると、誰かが、四代目小さんの妹の話をしてくれたので、雑司ヶ谷へ行ってみた。小さんの妹は、ややしばらく拝んだあと、
「もくず(※傍点あり)と出ました」という。
もくず—もくずというのは、なんのことだろうと思っていると、やがて養子の船が沈没して戦死したという知らせがきた。成程、海の藻屑となり果てたのである。
『あばらかべっそん』の文楽の話とは、かなりの相違がある。時期も違うし、場所も違う(『あばらかべっそん』では戦前は新宿、戦後は高幡不動尊そばとしてある)。また、この話だと敏男の戦死公報が届いたことになって、先の新聞記事とは事実の根底が違っている。船が沈んだことも『あばらかべっそん』の中で「私の船は機雷にかかって沈みましたが、幸いにして私は助かりました」という手紙が来たと書いている。同じネタでこれほど違うのはなぜなんだろう。
文楽は最晩年になって敏男の名を自分の家の墓石に刻み供養をした。自らの死を覚悟してのものだったと思う。
あの新聞記事から2年後のことであった。