朝、厚切りトースト、目玉焼き、ウィンナーソーセージ、チキンナゲット、紅茶。
妻は仕事。
ビル・エバンスのピアノソロ『アローン』を聴きながらコーヒーを淹れて、子どもたちと飲む。
車を洗う。寒かったが、見上げると雲ひとつない青空。気持ちいい。
昼は、昨日妻の実家でもらって来たパンを食べる。
昼過ぎ妻が帰って来る。
妻が煮物を始めた。私はベートーベンの第九『合唱』をかけ、中島敦『弟子』を読む。
静かな大晦日。
写真はこの前歩いた石岡。いつもより大きいレンズで撮る。これも面白い。
今日は仕事納め。午後から休みを取って、帰り道、大洗をちょっとだけ観光する。
まずは名刹、岩船山願入寺。鎌倉時代、浄土真宗の開祖、親鸞の孫、如信のよって開山された。その後衰微していたが、水戸二代藩主光圀の手によって現地に移転した。
幕末の天狗党の乱では門閥派の拠点になっていた。元治元年(1864年)8月12日、松平頼徳軍の歩士頭(かちがしら)立原朴次郎率いる八百名が攻撃、水戸藩兵は総崩れになって逃亡した。立原の軍勢は水戸藩兵が潜んでいることを恐れ、堂宇に火を放った。寺内から14名の死体が確認されたが、水戸藩士は馬廻組(うままわりぐみ)川立捨三郎、1名のみだった。(吉村昭『天狗争乱』より)
山門 |
本堂 |
開基堂 |
梵鐘 |
本堂は損傷がひどく、縄が張り巡らされている。下に参拝用の仏壇が設けられていた。とあるブログで読んだが、震災で立入禁止になったのだという。
水戸徳川家所縁の寺だからか、山門の扉には葵の御紋が彫られていた。この門は尾張徳川家御廟所の表門を移築したものだという。見事だねえ。
境内には親鸞聖人の銅像があった。
本堂脇に回ると、「磯節の父、渡辺竹楽房」の像がある。
かつてこの辺り、祝町は花街であった。俚謡俗謡も盛んだったのだな。
お次は大洗磯前神社。
随神門 |
拝殿。茅の輪くぐりがあった。 |
本殿 |
ざっとお参りを済ませ、石段を下りて神磯の鳥居へ行く。
文徳天皇の御代、ここに祭神が降り立った。何度見ても神々しい。
もう一度、この石段を上る。けっこうきついのよ、これが。
今日は一日寒かった。疲れていたのか、家に帰ったらうたた寝してしまいました。
昨日のイヴは、鶏ももの照り焼き、チーズフォンデュ、生ハムサラダで、妻の実家から送ってくれた白ワインを飲む。
寝しなには妻が買ってくれたボウモアを飲んだ。
今朝は雨。6時半ごろまで明るくならなかった。
朝食はバタートースト、コーンスープ、スクランブルエッグ、ウィンナーソーセージ。
妻は仕事に行った。
雨が上がり晴れる。午前中はドビュッシーのピアノソナタ、友部正人を聴きながら書き物をする。
朝から飲んでるわけではありません。 |
午後は年賀状を刷る。
夕方、妻とお疲れ生の缶ビール。
長男はアルバイトに行った。
夕食は、トマト煮、モツ炒め、蓮根チップで酒。妹夫婦からもらった長野の酒、大雪渓大吟醸。旨し。
食後、妻とホットワインを飲む。
昨日は冬至。
「ん」のつくものを食べると縁起がいいという。そこで妻は落語の『ん廻し』のようなメニューを用意する。「なんきん(かぼちゃ)」の味噌汁、「れんこん(蓮根)」の挽肉はさみ焼に洋風炒め、洋風炒めにはオリーブオイルと「にんにく」を使っている。酒は吉乃川純米(じゅんまい)の燗(かん)。さて、豆腐の田楽は何本になったかな。旨かったよ、奥さん。
父が柚子をどっさり貰って来たので、ここんとこ風呂は柚子湯にしている。いつもは2個はいっているが、冬至の昨日は5個。豪華版だった。(今日は2個に戻っていた)
今朝はボブ・ディランを聞きながら仕事に行った。真っ白に霜が降りた風景を見ながら聞く「北国の少女」はいい。
小さい頃から忘れ物が多く、落ち着きがなかった。複数のことを同時にやるのが苦手だった。こだわりが強く、パニックを起こすこともあった。たぶん、ADHD的傾向があったんだろう。
色々あったが、年を取るにつれコーティングされて、表面上は普通になってきた。それでも、時々メッキがはがれてへまをする。そういう時は周りに助けを求める。「自分はこういうミスをするからカバーしてね」とか「チェックしてね」とか。大体職場は周りがほとんど年下だから頼みやすい。そう思えば年を取るのも悪くない。
そもそも人はミスをするものだ。完璧を求められるのは苦しい。失敗が許されないような状況は「ブラック」である。そんな状況に追い込まれないよう自分を守る必要がある。
言い訳だけは巧くなった。しょうがねえな、まったく。
朝、御飯、味噌汁、ハンバーグ、納豆。
次男が土曜講座だというので駅まで送る。帰りに霞ケ浦の堤防に回る。風が強く寒い。
妻は仕事に行った。長男とコーヒーを淹れて飲む。
灯油を買って来て家のストーブに給油する。
八海くんから電話。根室は吹雪だという。松弥くんの話になる。
長男と図書館に行く。プルースト『失われた時を求めて』を拾い読む。
昼は賞味期限が切れていたカップラーメンを食べる。私は横浜家系、長男はどん兵衛。
午後、長男がバイトに行く。今日は私だけが一日フリー。
夕食は大根と豚肉、きのこの鍋、ししゃもで燗酒。食後に妻と赤ワインを飲む。
風呂に入って、寝しなにアイリッシュウィスキー。
今日は一日寒かった。さぞかし山は雪だんべえ。
大学の落研の2年下、松竹亭松弥くんが亡くなった。それを知ったのは、彼と同期の五里んくんのFBでだった。
彼の落語は面白かった。口調や仕草が独特だった。私の得意ネタ『豆や』を引き継いでくれたが、その高座姿が今でも目に浮かぶ。
宴会では先頭に立って盛り上げた。まるで昔の柳家の若手のように裸芸をいとわなかった。皆、ひっくり返って笑った。
統率力があり、よく同輩や後輩を引き連れて遊んでいた。
小田急線喜多見駅近くのアパートに住んでいた。私は同じ喜多見にいた高山T君のアパートで話し込んだ後、よく松弥くんのアパートに泊まった。部屋に裸電球がぶら下がっていたのを覚えている。私はいつかここで、ちょっとした深い話をしたことがあった。彼は私のために怒ってくれた。それがうれしかった。
松弥くんといえば、野球の話は避けて通れない。
実は、私は野球がわりかし得意で、1年から落研チームの四番なんか打っていたのだ。当時はリクレーションというと、ソフトボールをよくやっていて、派手にホームランをかっとばしたりしてもいたのだ。
ところが、松弥くんのソフトボールのデビュー戦のことだ。彼は、初打席で圧巻のレフトオーバーのホームランを放った。打球は、サードを守っていた私の頭上をはるかに越え、レフト奥の土手に突き刺さった。今でも目に焼き付いている。それを見て、私の同期の悟空くんは、いみじくも「伝助の時代も終わったな」と言ったものだ。
卒業後は埼玉県の高校の教員になり、以来ずっと高校野球の指導者の道を歩いた。
埼玉県の古豪の野球部長や、確か母校の監督も務めたのではなかったか。ご子息も高校球児だったと記憶している。
彼が古豪の部長だった時、部室が盗難に遭って、その犯人を部員とつきとめたことがあった。それが新聞に載り、それを私は大福さんのブログで知った。いかにも松弥くんらしいエピソードだった。そんな青春ドラマみたいなことをやってのけたのも、彼の真っ直ぐな正義感と行動力の賜物だったように思う。松竹亭松弥は熱い男だった。
最後に松弥くんに会ったのは、2012年11月のOB会だった。学生時代まんまでうれしかったな。
2017年7月のOB会は、全国高校野球選手権埼玉県大会の開会式の日で、松弥くんは欠席した。まあ当然だよな。でももう会えないと思うと悔やまれる。
59歳の死はあまりに早い。元気な人だったから、うまく現実に結びつかない。ただ茫然としている。
心よりご冥福を祈る。
今年は八代目桂文楽没後50年。50年前の今日の朝日新聞朝刊の記事から当時を振り返ってみたい。
記事によると、文楽は、12月12日、日曜日、午前9時20分、肝硬変のため、東京都千代田区神田駿河台の日大医学部付属駿河台病院で亡くなった。79歳。
告別式は18日、落語協会葬を兼ねて台東区西浅草の東本願寺で行われる。喪主は長男、並河益太郎、葬儀委員長は落語協会会長、三遊亭圓生。
各落語家のコメントは次の通り。
柳家小さん「さびしいねえ。本当のはなし家らしい人が、いなくなっちゃった」
金原亭馬生「(9月に母親を亡くしたばかり)二つともこんなことが続いて、悪い夢見ているみたいで・・・。オヤジ(古今亭志ん生)は、だまったきり、なんにもいいません。こたえたんでしょう」
三遊亭圓生「戦後のころ、われわれの仲間も動揺しましてねえ。そん時も、あの人はごうも揺るがずってんですか、きちんとしたはなしを守った。それが、下にどれだけ力になったか」
同年8月31日、国立小劇場、落語研究会で「大仏餅」口演中に絶句した、その後について、記事ではこのように書いている。
「これが最後か」と、居合わせた人は思った。が、本人はやる気十分。「お客さまにすまない」を繰り返し、気分のいいときは「寝床」や「心眼」を口ずさんでいた。
これを見ると、文楽は復帰に意欲的だったと思われる。
川戸貞吉の『落語対談2』では、西野入医師が、周囲が高座復帰を勧めても「お気持ち、ありがとございます」と言って、文楽は頑として応じなかったと証言していた。
大西信行は『落語無頼語録』の中で、「でも、春ンなったら、ぽつぽつ新しいはなしもやるように心掛けているんだ」と語る文楽を描いている。
文楽自身、揺れ動いていたんだろうな。結局、文楽はその後、二度と高座には上がらずに逝った。
記事の最後はこう結ばれている。
夫のまくら元にすわった梅子夫人は、弔問客が来るたびに、顔の白布を取り、「ほら、〇〇さんですよ」。安らかそのもの、といった死顔だった。いまにも、長いまゆ毛の下の大きなまなこが開いて「こりゃどうも、あばらかべっそんで」といい出しそうな。
朝、御飯、味噌汁、ウィンナーの炒めもの、納豆。
今日は久し振りに観光がしたいね、という話になり、妻と観光地笠間へ行く。子どもたちは、午後から友達が遊びに来るのでお留守番。
まずは、最近できた、道の駅笠間に行く。
ここの目玉は笠間栗のモンブランだが、もはや大行列が出来ていて断念。直売場を見物する。
外のテントで妻の好物の焼き椎茸を売っていたので、買って食べる。一本150円。肉厚で旨い。
ふと鏡ヶ池という石碑が目に入って寄ってみる。
桜川の水源。どんなに日照りが続いても水が涸れたことがないという。 |
来た道を戻って、石切り場の見学地を見つけたが、もう駐車場はいっぱい。では、稲荷神社へ向おう。
佐白山公園の駐車場に車を止め、お稲荷様にお参りする。
ちょうど昼どき。門前の柏家で昼飯にする。私はけんちんそば、妻は稲荷そばにする。稲荷寿司をひとつ、つけた。
稲荷そば、880円。 |
けんちんそば、880円。 |
また、ぶらぶら歩きながら駐車場へ向かう。途中、壺焼き芋、サザコーヒーを買って、ベンチに座って食べる。震度4の地震がある。ちょっとビビる。
1本300円とリーズナブルである。 |
車に乗って向山窯へ行き、やきものを見て、お向かいの石窯パンで食パンとクロワッサンを買う。
妻が、クロワッサンはすぐに食べるのがいちばんだと言うので、愛宕山の上まで行き、下界を眺めながら食べる。なるほど、ぱりぱりして旨い。カスタードクリームとチョコレートとの相性も抜群だったね。
買い物をして、3時頃家に帰る。片道1時間ぐらいで充分観光気分を味わえた。やはり茨城はいい所だ。
妻と夕方、ハートランドビールを飲む。
夕食は妹からお歳暮にもらった鰻を丼にし、笠間で買って来た椎茸を焼いて食べる。これがまた燗酒に合うんだな。旨し。
食後に妻は白ワイン、私はアイリッシュウィスキーを飲む。
美味しいものをいっぱい食べて、のんびりできた。奥さん、今度はモンブランを食べようね。
今日は八代目桂文楽の命日。今年で没後50年である。
在りし日の黒門町。 |
寒い朝。外は霜で真っ白だった。
妻は仕事に行った。天気がいいので布団を干す。
昼は次男が作った焼きそばを食べる。旨かったよ。
昼過ぎ、長男はアルバイトに行った。
荒木陽子の『愛情生活』をぽつぽつと拾い読む。夫荒木経惟との生活を軽快に綴ったエッセイ。陽子さんは1990年、42歳で亡くなっている。
夕方、妻がピーナッツの塩茹でを作る。それをつまみに二人で「お疲れ生」の夕方ビール。
夕食は、鶏の唐揚げ、卵豆腐、ポテトフライで燗酒。食後に妻とワイン。
寝しなにアイリッシュウィスキー。
ここんところ仕事が忙しい。定年前より仕事をしている気がするよ。
三遊亭圓丈が死んだ。寂しい。
圓丈を初めて見たのは新宿末広亭だった。落語協会に復帰した直後だったと思う。ネタは『競走馬イッソー』だった。雑誌『落語界』で『ぺたりこん』も読んでいたが、今まで聞いたことのないタイプの落語だった。それまでの新作落語といえば、熊さん八つぁんを鈴木君山田君に代えた、古典の焼き直しのようなものだったが、圓丈の新作は、SFあり不条理あり、とにかくぶっ飛んでいた。
やがて圓丈は、テレビの「名人劇場」で口演した『グリコ少年』をきっかけに、一躍マスコミの寵児となった。
同時期には池袋演芸場で、前日のお題から翌日新作を作り、ネタおろしするという「三題噺の会」を開いた。定席だから十日間ぶっとおし。本当にとんでもないことをやったのだ。ここから名作『インドの落日』は生まれたのではなかったか。
その頃、私はちょうど大学生で落研に所属していた。私自身はゴリゴリの古典派だったが、圓丈の登場には興奮したな。落語の新しい時代が切り開かれていく高揚感があった。『グリコ少年』は無論だが、『悲しみは埼玉に向けて』『パニックイン落語界』など、まさに抱腹絶倒の面白さだった。(落研同期の八海くんが「追ん出し寄席」で演った『夢地獄』も面白かった)
圓丈がテレビで売れていたのはそれほど長い期間ではない。その身にまとうマイナー感が、テレビとは相性がよくなかったのだろう。そのおかげで消費されずに済んだ。圓丈はテレビタレントにならず、あくまで落語家でいてくれた。
そして、落語協会分裂騒動を描いた『御乱心』の刊行。大圓朝へと遡る三遊本流をずたずたにした師匠圓生、兄弟子圓楽へのまっすぐな怒りをぶちまける。これを書くことで世間が狭くなることは明白だったろうに、それでも彼は書かずにはいられなかったのだ。圓丈は闘う男だった。
後年の著書『ろんだいえん』でも、その刃は古典という財産にただ乗りしているような落語家に、評論家に、果ては観客にも向かった。
圓丈が作った新作落語は300席に及ぶという。師匠圓生の持ちネタに匹敵する数ではないか。
彼が切り開いた道に、春風亭昇太が柳家喬太郎が三遊亭白鳥が続いた。立川志の輔の初期の新作も、圓丈という先達がいなかったら生まれていなかったと思う。
新聞は圓丈を「新作落語のカリスマ」と呼んだが、彼は自分が権威になろうとはしなかった。若手を相手にウケで負けまいと、本気でのたうち回っていた。
先代圓楽がぶち上げた鳳楽による七代目圓生襲名騒動の時は、圓窓とともに襲名レースに名乗りを上げた。圓楽一門が推す鳳楽と、六代目の遺族の意をくんでいるという圓窓との泥沼の争いに割って入った圓丈は、鳳楽と浅草東洋館で「七代目三遊亭圓生争奪落語会」を開く。まるでプロレスのような展開に、いつしか襲名問題も立ち消えになって行った。
この時圓丈は「鳳楽は六代目の孫弟子、圓窓は柳枝門下からの移籍、圓生の名は直弟子の私が継ぐ」と言った。圓生の死後、落語協会に復帰した際、三遊一門としてまとまることすら許されなかったことへの怒りが、圓丈を突き動かしたのだろうか。ただ、圓丈は策謀を巡らすことはせず、観客を巻き込んだ。それが先代圓楽の野望を吹き飛ばす結果となった。(鳳楽には気の毒な結果にはなったが)
この一件で私が感じたのは、圓丈の「自分は大圓朝に連なる三遊本流の落語家である」という強烈な自負であり、矜持であった。
私が圓丈を最後に見たのは、2019年5月下席、浅草演芸ホール昼主任の高座だった。圓丈はその頃好んで着ていた袖なしの羽織姿で現れた。昔はワッペンをちりばめた高座着だったなあなどと思いながら、私は圓丈の高座に向き合った。
座布団の前には見台があり、そこにはメモが用意されていた。ここ数年、彼が記憶力の低下に悩み、薬を服用していたことを、私は後に知った。
ネタは『強情灸』。分裂騒動の際の圓生の宿敵、柳家小さんが得意にした古典落語が、私が最後に見た圓丈の落語かと思うと、今更ながらに感慨深い。
その時は、そんなことになろうとはつゆ知らず、それなりに楽しんでいたのだが、今にして思えば、やっぱり新作が聴きたかった。
圓丈師匠、あなたの闘う姿を、私はずっと、カッコいいなあと思いながら見てきました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
石岡市旧八郷町地区で火の見櫓をいくつか見つけたので、紹介します。
まずは半田の火の見櫓。なかなか立派。うれしくなっちゃった。
お次は恋瀬から善光寺楼門へ行く途中に見えた火の見櫓。山里の風景に溶け合っていい雰囲気でした。
朝、マフィン、スープ。地区のゴミ拾い。
妻と次男は義父の墓参りに牛久へ行った。
私は、長男がアルバイト先の会食に出る、というので八郷の山の方へ送って行く。(長男はアルバイトの往復でしか車を運転していない)
長男を降ろして、私は八郷盆地の北の方をドライブすることにする。
ドライブのお供は、この前100円で買った中古CDのママス&パパス。空気の乾いた冬の日によく似合う。
国の重要文化財になっている善光寺楼門に行く。
「月光山」の額。 |
同じ敷地内に神社があった。 |
あの山から娘たちは逃げて来たんだね。 |
筑波山。 |