W・P・キンセラの小説で『シューレス・ジョー』というのがある。ケビン・コスナーの主演で『フィールド・オブ・ドリームス』という映画にもなった。
主人公はアイオアで農業をしている。ある日彼は「それを作れば、彼はやってくる」という声を聞く。そしてその声に従うようにトウモロコシ畑をつぶして野球場を作ると、ある夜、そこに現れたのは、伝説の名選手、シューレス・ジョー・ジャクソンだった。というのが、この話の発端である。
もし私がその声を聞いて野球場を作るとしたら、そこに現れてほしい野球選手が一人いる。大下弘である。
大下弘。1922年12月15日生まれ。1979年5月23日没。享年56歳。第二次世界大戦後、プロ野球の復活とともに彗星の如く現れ、軽々とホームランを量産してファンの度肝を抜いた。天衣無縫で底抜けに明るい人柄は多くの人に愛された。東急フライヤーズ(現日本ハムファイターズ)、西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)に在籍し、実働14年間、1547試合に出場して、1687安打、201本塁打、861打点、生涯打率3割3厘の成績を残した。
私は大下の現役時代を知らない。彼の引退試合は、私が生まれるちょうど1年前に行われた。
それでも、名前は知っていた。「赤バットの川上、青バットの大下」は、あまりにも有名だった。
私が大下の生涯について知ったのは、『青バットのポンちゃん 大下弘』(桑原稲敏・ライブ出版・1989年刊)を読んでだった。この本で、ほぼ大下の生涯は網羅されている。ぽんぽんと弾むような軽快な文章で、それがいかにも大下を語るにふさわしかった。私は大下の破天荒な生き様に魅了された。試合が終われば若手を引き連れ一晩中飲み歩く。一試合7打席7安打の日本記録は、翌日が雨で中止だと思い込んで朝5時まで飲み歩いた末の、ひどい二日酔いでのものだった。スター選手で高給取りだったが、そのような生活に加え、母親の薬物依存症の治療も重なり借金まみれ。引退後はプロ野球界でコーチ、監督を務めるも、いずれも失敗。晩年は少年少女野球の指導に生きがいを見いだすが、脳血栓に倒れ失意のうちに死んだ。まさに破滅型の天才だった。
もう一冊、『大下弘・虹の生涯』(辺見じゅん・新潮社・1992年刊)では、綿密な取材のもと、前出の「ポンちゃん」では明かされていなかった事実が記されている。大下が復員後、世話になっていた明治大学の同級生は実名で出てくる。「ポンちゃん」ではその妹と結婚したことになっているが、実はそれは婚約しただけで解消になり、「ポンちゃん」でいう最初の妻、登志子は、その妹とは別人であった。また、大下とともにプロ野球に身を投じた明大の同輩、清水喜一郎が自殺したこと、大下が東急を退団する際、大下の代理人となり大騒動を引き起こした加藤正志が、後に自殺したことなども書かれていた。そして、何よりも衝撃だったのは、大下自身が睡眠薬自殺を遂げていたことである。その様子はエピローグでひっそりと綴られている。天才大下が放つ光が強烈であればこそ、くっきりと濃い影が落ちる。
大下弘の打撃フォームを映像で見たことがある。右足を高く上げ、バットをヒッチさせてすくい上げるように振りぬく。流れるような美しいフォームだった。右と左の違いはあるが、田淵幸一がそれに近い。そこから放たれた打球は大きな弧を描きどこまでも飛んで行った。それはまるで虹のようだったという。
二冊の本に同じ言葉が出てくる。大下の西鉄時代の監督、知将、三原侑の言葉だ。辺見じゅんは、これで『虹の生涯』の最後を飾った。
「日本の打撃人を五人あげるとすれば、川上、大下、中西、長島、王。三人にしぼるとすれば、大下、中西、長島。そして、たった一人選ぶとすれば、大下弘」
さあ夢の野球場のスタンドに座り、大下が描く虹を見よう。