8月も今日で終わり。
取り立てて何かしたわけではないけれど、今年も「夏の思い出」と洒落込んでみようと思います。
まずは、夏の花。
車庫脇の百合 |
霞ケ浦湖畔の蓮の花 |
前山の百合 |
大洗、大貫台から見る海 |
大貫運河跡の船溜まり |
涸沼川 |
北浦大橋近くの船溜まりから |
稲敷市古渡を流れる小野川 |
ちょっとお出かけ。
取手宿の造り酒屋 |
奈良漬屋さん |
取手宿本陣 |
日光東照宮の陽明門 |
唐門 |
参道の和菓子屋さん |
湯葉そば |
井上陽水「少年時代」っぽいあぜ道 |
夕立の気配 |
妻と夕方ビール |
山の日の空 |
お盆 |
三遊亭金翁師匠が亡くなった。93歳。就寝中に呼吸が止まっていることに家族が気づき、死亡が確認されたという。まさに、眠るが如き大往生だった。
私としては四代目三遊亭金馬としてしか彼を認識していない。2020年、息子に金馬を譲り、自らは隠居名の金翁を名乗った。
師匠三代目金馬が文楽・志ん生に並ぶ名人で強烈な個性の持ち主であったものだから、ずっと「先代は上手かった」と言われ続けていた。
とはいえ、四代目も売れっ子だった。小金馬の時分にNHKの「お笑い三人組」で、一龍齋貞鳳、江戸家猫八とともに人気者になった。ドラマなんかにもよく出ていて、でも、そのことは落語の方にはマイナスに作用していたように思う。私は若い頃、この人の軽演劇的な匂いが、あまり好きではなかった。
所属していた落語協会では、あまり優遇はされていなかったようだ。三遊亭圓丈著の『落語家の通信簿』から引用してみる。
しかし、どういうわけか、金馬師匠は落語仲間のウケが悪い。「やっぱり、金馬は先代に限るね」「ホント先代はうまかった」などと言われる。
金馬師匠は落語協会に途中入会したために、ヨソ者扱いされる。途中入会と言っても、もう四〇年になるが・・・。落語家の世界は、極度にヨソ者を嫌う傾向があるんだ。
気の強い談志師は、楽屋で金馬師が隣に座っているのに、マジで「おう、オレが金出すから、帰ってもらえ」と露骨に嫌味を言っていた。
出口一雄が持っていた、昭和46年度(1971年)の『芸人重宝帳』には、落語協会の香盤順とは別に欄外に載っている。ここからも、金馬が「ヨソ者」だったということが分かる。
四代目金馬は、師匠が東宝名人会専属であったために、他の寄席で修業はしていない。小金馬としてテレビで売れ、真打に昇進してから昭和39年(1964年)、三代目金馬が死んだ年に落語協会に加入、四代目金馬を襲名した昭和42年(1967年)落語協会常任理事に就任した。(ウィキペディアによる)
こういう経歴を見ると、落語協会の同年代の落語家が「ヨソ者のくせに」と思うのも無理はないと思ってしまう。
それでも、四代目は黙々と落語に取り組み、寄席の高座に上がり続けた。私が学生時代、寄席でよく見た落語家の一人が、この四代目金馬であった。
大西信行の『落語無頼語録』には「じり足の、金馬」という文章が収められており、四代目を評価している。
私は年を取ってからこの人が好きになった。初席で『七草』を聴くと、本当に正月が来た気分になった。夏休みに鈴本で聴いた『唐茄子屋政談』はよかったなあ。
金馬をけなす気持ちは分かるが、でも金馬のよさが分からないのはまだまだ青いなあ、と私は思う。四代目金馬もまた、私にとっては大切な落語家だったのだ。
三遊亭金翁師匠の冥福をお祈り申し上げます。
昨日は、上司が休日出勤の代休を取ってくれと言うので、午後から休みをもらって帰る。
昼は久しぶりに鉾田に回り、ときわで食べることにする。
旧旭村の国道51号線沿いにある商店。 素敵な佇まい。 |
12時半頃店に着くが、しばらく待ちになるという。ケータイの番号を教えて車で待つ。およそ30分待って入店。
豚肉ナポリ辛口、ドリンク付をオーダー。1012円。久々だったが旨いなあ。ただ、六十代にはちょっと多いかな。次からはハーフでいいかもしれない。
これは2020年の時の写真です。 |
夕食は鶏焼き、さつま揚げでビールと日光土産の純米酒。食後にアイリッシュウィスキー。
今日は夏休みが半端に残っていたので、半日で帰る。
昼は柳屋食堂で五目そば。800円。ごま油が香り立つ。旨し。
2時頃帰る。猫とごろごろしながら、リチャード・ブローティガンの詩集『東京日記』を読む。『アメリカの鱒釣り』『愛のゆくえ』『西瓜糖日々』・・・、ブローティガンは詩のような小説を書く。本質は詩人なんだな。私の理想形の表現のひとつである。
夕食は肉巻き、シューマイ、卵豆腐でビール、酒。食後にアイリッシュウィスキー。
ずいぶん長い間、家族で県境をまたいだ外出をしていなかった。
3年前に行った日光に、ふと思い立って出かけてみた。
8時頃家を出て、日光東照宮の駐車場に着いたのは10時15分頃。その頃には、もう正規の駐車場は満車で、臨時の方に回された。
東照宮はけっこうな人出だった。さすが日曜日の観光地だ。
拝観料を払い、仁王門をくぐって陽明門に向かう。東照宮の建物は、いつ見ても派手だねえ。
この前の「福の家一門会」では、私は「酢豆腐」をかけた。
学生時代は同期の世之助くんのネタだった。同期のネタはやらない。それは、我が落研の不文律であった。
先輩のネタはやってもよかった。むしろ、皆、先輩のネタを好んでやっていた。「酢豆腐」は二代目紫雀さんのネタだった。紫雀さんの噺は志ん朝そっくりの名調子。すごく面白かったから、世之助くんもやりたかったのだろう。世之助くんの「酢豆腐」も明るくって好きだったな。
私はヘソマガリだったから、先輩のネタもあまりやっていない。「豆や」ぐらいか。あれは圓漫さんのネタだったな。
ちなみに私が現役の頃の人気のネタは、「無精床」、「蜘蛛駕籠」、「寄合酒」、「つる」、「猫と金魚」、「千早振る」、「堀の内」など。それぞれの代で誰かやっていたと思う。
福の家に入って、同輩の持ちネタを解禁した。弥っ太くんの「長短」も覚えたし、今回は世之助くんの「酢豆腐」もやってみたのだ。(もういいだろ?)
「酢豆腐」といえば、我々の世代では古今亭志ん朝の名演が耳に残っている。クスグリもそんなに凝ったものじゃないんだけど、志ん朝がやると、文字通り客がひっくり返って笑うんだよな。私も上下の確認のため志ん朝のDVDを見たけど、見ててやんなっちゃった。あんまりすごくて、「おれがわざわざやんなくてもいいんじゃないか」と思ってしまったのだ。それでひと月ぐらい稽古も出来なかったよ。
でも、折に触れてぶつぶつやっているうちに、あの暑気払いに興じる有象無象を演じるのが、たまらく楽しくなった。そういや、おれたちも学生時代、たまり場のアパートに集まってはつまみを持ち寄って安酒を飲んで騒いだっけ。仲間同士、いたずらをしながら、くだらないことで盛り上がっていたっけ。ああいう気分でやってみたら、おれの「酢豆腐」ができるんじゃないか、と思ったりもしたのだ。
で、やってみたよ。やってて楽しかった。客前でやり慣れてくれば、何とかなりそうだ。
この間、八代目桂文楽の「酢豆腐」を、久し振りにCDで聴いた。
黒門町の最大の功績は、あの若旦那だろうな。あれは文楽が、実在の芸人、三遊亭円盛という人をモデルにして造形したものだ。三遊亭圓盛、通称「イカタチ」。「イカの立ち泳ぎ」からきている。奇人として知られ、それがぴたり「酢豆腐」の若旦那にはまった。以後、「酢豆腐」の若旦那は文楽のものが基本形になっている。
三遊亭圓盛について、『古今東西 落語家事典』(平凡社)には、次のように書いてある。
本名、堀善太郎。明治2年1月2日生まれ、初め梅松亭竹寿門人、梅の家小竹を名乗る。後、遊七(三代目圓橘)門に転じ七福。明治30年頃、二代目小圓朝門で圓盛となる。「イカタチ」というあだ名と奇人ぶりが有名。志ん生の最初の師といわれる。没年は未詳だが、大正前半まではいたらしい。
文楽もまた有象無象の若者たちを、実に楽しそうに演じているんだよなあ。実際、怒るべきところも笑ってさえいるのだ。
京須偕充が『志ん朝の落語6』の「酢豆腐」の解説で、志ん朝の方は「若い衆一同が職人らしい。全員が遊び人めく文楽より現実味がある。」と書いている。なるほど。
確かに文楽の方は、いちいち皆、末枯れている。素人じゃあない。
ここで私は、文楽が若手の頃、落語家仲間で「幸先組」という組合を結成していたことを思い出す。メンバーは春風亭柏枝(六代目柳橋)、柳家さん三(三代目つばめ)、寿司家弥輔、六代目柳家小三治、春風亭梅枝(柳窓)、そして翁家さん生から馬之助になる頃の文楽だった。当時、文楽は二十代半ば、いわば幸先組は、若者の有象無象の集団だった。とすれば、「酢豆腐」の若い衆を演じる時、文楽は彼らとの日々を思い出してはいなかったか。そうなると「全員が遊び人めく」のも無理はない。
中でも春風亭梅枝と文楽はウマが合ったという。梅枝も奇人であったようだ。もしかしたら、「あります、あります」「そりゃあ私は銭はない、銭はないけど刺身は食う」の男は梅枝だったのではないか、と想像すると楽しくなる。
今日でお盆の長い休みも終わり。
14日は新盆回りをして、夕食は妹と甥二人をまじえて宴会。刺身、妹と妻が揚げた天ぷらなどでビール、酒を飲む。酒はこの前父と買って来た、取手の地酒「君萬代」。旨かったよ。
15日は、まず家の墓に参ってから、牛久へ行って義父の墓参り。
今日は妻が仕事。八代目桂文楽の「酢豆腐」をCDで聴く。黒門町は実に楽しそうにこの噺を演る。全ての場面を演じて19分。私は30分かかる。
昼にはうどんを茹でて子どもたちと食べる。
午後はお盆の飾りの片付け。皆でご先祖様を送って行く。
久々の猛暑日になる。暑い。
母の実家の地区では「盆綱」という風習がある。藁で作った大蛇を担いで子どもたちが練り歩くというものだ。13日は大蛇に乗ってご先祖様がやって来る。子どもたちは「仏様ござった」と言って、集落の家々を回る。子どもたちはそこで小遣いやお菓子をもらう。15日は大蛇に乗ってご先祖様がお帰りになる。「仏様お帰りだ」と言いながら13日とは逆コースを辿る。子どもは大分少なくなったが、今も行われているという。
夕食は、ドリア、スープ、サラダ。今日は休肝日にする。
6連休か。休みは長かったが、何にもしてないなあ。
豆ちゃんも今日は寝てばかりいた。 |