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2022年8月31日水曜日

夏の思ひ出

8月も今日で終わり。

取り立てて何かしたわけではないけれど、今年も「夏の思い出」と洒落込んでみようと思います。

まずは、夏の花。

車庫脇の百合

霞ケ浦湖畔の蓮の花

 
前山の百合


花ではないけど、猫草。葉の先に露

今年はあまり朝顔が咲かなかったな。

水のある風景。

大洗、大貫台から見る海

大貫運河跡の船溜まり

涸沼川

北浦大橋近くの船溜まりから

稲敷市古渡を流れる小野川

ちょっとお出かけ。

取手宿の造り酒屋

奈良漬屋さん

取手宿本陣

日光東照宮の陽明門

唐門

参道の和菓子屋さん

湯葉そば

夏らしい風景。

井上陽水「少年時代」っぽいあぜ道

夕立の気配

妻と夕方ビール

山の日の空

お盆

一時涼しかったけど、また暑くなりました。早く秋らしくなってほしいものであります。

2022年8月27日土曜日

三遊亭金翁(四代目三遊亭金馬)師匠を悼む

三遊亭金翁師匠が亡くなった。93歳。就寝中に呼吸が止まっていることに家族が気づき、死亡が確認されたという。まさに、眠るが如き大往生だった。

私としては四代目三遊亭金馬としてしか彼を認識していない。2020年、息子に金馬を譲り、自らは隠居名の金翁を名乗った。

師匠三代目金馬が文楽・志ん生に並ぶ名人で強烈な個性の持ち主であったものだから、ずっと「先代は上手かった」と言われ続けていた。

とはいえ、四代目も売れっ子だった。小金馬の時分にNHKの「お笑い三人組」で、一龍齋貞鳳、江戸家猫八とともに人気者になった。ドラマなんかにもよく出ていて、でも、そのことは落語の方にはマイナスに作用していたように思う。私は若い頃、この人の軽演劇的な匂いが、あまり好きではなかった。

所属していた落語協会では、あまり優遇はされていなかったようだ。三遊亭圓丈著の『落語家の通信簿』から引用してみる。


 しかし、どういうわけか、金馬師匠は落語仲間のウケが悪い。「やっぱり、金馬は先代に限るね」「ホント先代はうまかった」などと言われる。

 金馬師匠は落語協会に途中入会したために、ヨソ者扱いされる。途中入会と言っても、もう四〇年になるが・・・。落語家の世界は、極度にヨソ者を嫌う傾向があるんだ。

 気の強い談志師は、楽屋で金馬師が隣に座っているのに、マジで「おう、オレが金出すから、帰ってもらえ」と露骨に嫌味を言っていた。 


出口一雄が持っていた、昭和46年度(1971年)の『芸人重宝帳』には、落語協会の香盤順とは別に欄外に載っている。ここからも、金馬が「ヨソ者」だったということが分かる。

四代目金馬は、師匠が東宝名人会専属であったために、他の寄席で修業はしていない。小金馬としてテレビで売れ、真打に昇進してから昭和39年(1964年)、三代目金馬が死んだ年に落語協会に加入、四代目金馬を襲名した昭和42年(1967年)落語協会常任理事に就任した。(ウィキペディアによる)

こういう経歴を見ると、落語協会の同年代の落語家が「ヨソ者のくせに」と思うのも無理はないと思ってしまう。

それでも、四代目は黙々と落語に取り組み、寄席の高座に上がり続けた。私が学生時代、寄席でよく見た落語家の一人が、この四代目金馬であった。

大西信行の『落語無頼語録』には「じり足の、金馬」という文章が収められており、四代目を評価している。


私は年を取ってからこの人が好きになった。初席で『七草』を聴くと、本当に正月が来た気分になった。夏休みに鈴本で聴いた『唐茄子屋政談』はよかったなあ。

金馬をけなす気持ちは分かるが、でも金馬のよさが分からないのはまだまだ青いなあ、と私は思う。四代目金馬もまた、私にとっては大切な落語家だったのだ。


三遊亭金翁師匠の冥福をお祈り申し上げます。

2022年8月26日金曜日

連日の半ドン

昨日は、上司が休日出勤の代休を取ってくれと言うので、午後から休みをもらって帰る。

昼は久しぶりに鉾田に回り、ときわで食べることにする。

旧旭村の国道51号線沿いにある商店。
素敵な佇まい。

12時半頃店に着くが、しばらく待ちになるという。ケータイの番号を教えて車で待つ。およそ30分待って入店。

豚肉ナポリ辛口、ドリンク付をオーダー。1012円。久々だったが旨いなあ。ただ、六十代にはちょっと多いかな。次からはハーフでいいかもしれない。


これは2020年の時の写真です。

2時過ぎに帰る。ごろごろしながらビートルズのDVD『ゲット・バック』を見る。この間、アマゾンで買った。10200円。発売当初は13000円だった。


 1969年1月2日から30日までの「ゲット・バック・セッション」を『ロード・オブ・ザ・リング』のピーター・ジャクソンが編集したもの。かつてマイケル・リンゼイ・ホッグ監督映画『レット。イット・ビー』として公開された。ディスク3枚に及ぶ超大作。昨日、やっと見終えた。アップルビルでのルーフトップ・ライヴはほぼノーカット。感涙にむせぶ。詳しい感想は後日書こうと思う。

夕食は鶏焼き、さつま揚げでビールと日光土産の純米酒。食後にアイリッシュウィスキー。


今日は夏休みが半端に残っていたので、半日で帰る。

昼は柳屋食堂で五目そば。800円。ごま油が香り立つ。旨し。


2時頃帰る。猫とごろごろしながら、リチャード・ブローティガンの詩集『東京日記』を読む。『アメリカの鱒釣り』『愛のゆくえ』『西瓜糖日々』・・・、ブローティガンは詩のような小説を書く。本質は詩人なんだな。私の理想形の表現のひとつである。

夕食は肉巻き、シューマイ、卵豆腐でビール、酒。食後にアイリッシュウィスキー。



2022年8月21日日曜日

日光へ行く

ずいぶん長い間、家族で県境をまたいだ外出をしていなかった。

3年前に行った日光に、ふと思い立って出かけてみた。

8時頃家を出て、日光東照宮の駐車場に着いたのは10時15分頃。その頃には、もう正規の駐車場は満車で、臨時の方に回された。

東照宮はけっこうな人出だった。さすが日曜日の観光地だ。



拝観料を払い、仁王門をくぐって陽明門に向かう。東照宮の建物は、いつ見ても派手だねえ。




陽明門から唐門へ。3年前、唐門は修理中だった。





拝殿に上がって参拝した後、眠り猫を見る。うちの豆ちゃんに似ております。


11時頃、東照宮を後にする。


参道をだらだら下りて神橋を見る。川の流れも美しい。


門前町でお昼にする。いかにも老舗といった佇まいのここは、お客でいっぱい。


私たちはお向かいのここへ入る。


湯葉そば(冷)御膳をいただく。色とりどりで楽しい。


お昼を食べて、街をぶらぶらする。なかなかいい街並みだ。






雨が降ってきたので、駐車場に戻る。次男も明日から夏期課外なので、早めに帰路に就くことにする。

今市市街の道の駅に寄る。おやつにソーダフロートを食べる。ちょっとだけ今市を街撮り。




途中買い物をして5時前には帰宅。日帰りだったけど、久々の遠出は楽しかったな。そろそろ旅行もしたいよねえ。

2022年8月20日土曜日

「酢豆腐」雑談

 この前の「福の家一門会」では、私は「酢豆腐」をかけた。

学生時代は同期の世之助くんのネタだった。同期のネタはやらない。それは、我が落研の不文律であった。

先輩のネタはやってもよかった。むしろ、皆、先輩のネタを好んでやっていた。「酢豆腐」は二代目紫雀さんのネタだった。紫雀さんの噺は志ん朝そっくりの名調子。すごく面白かったから、世之助くんもやりたかったのだろう。世之助くんの「酢豆腐」も明るくって好きだったな。

私はヘソマガリだったから、先輩のネタもあまりやっていない。「豆や」ぐらいか。あれは圓漫さんのネタだったな。

ちなみに私が現役の頃の人気のネタは、「無精床」、「蜘蛛駕籠」、「寄合酒」、「つる」、「猫と金魚」、「千早振る」、「堀の内」など。それぞれの代で誰かやっていたと思う。


福の家に入って、同輩の持ちネタを解禁した。弥っ太くんの「長短」も覚えたし、今回は世之助くんの「酢豆腐」もやってみたのだ。(もういいだろ?)

「酢豆腐」といえば、我々の世代では古今亭志ん朝の名演が耳に残っている。クスグリもそんなに凝ったものじゃないんだけど、志ん朝がやると、文字通り客がひっくり返って笑うんだよな。私も上下の確認のため志ん朝のDVDを見たけど、見ててやんなっちゃった。あんまりすごくて、「おれがわざわざやんなくてもいいんじゃないか」と思ってしまったのだ。それでひと月ぐらい稽古も出来なかったよ。

でも、折に触れてぶつぶつやっているうちに、あの暑気払いに興じる有象無象を演じるのが、たまらく楽しくなった。そういや、おれたちも学生時代、たまり場のアパートに集まってはつまみを持ち寄って安酒を飲んで騒いだっけ。仲間同士、いたずらをしながら、くだらないことで盛り上がっていたっけ。ああいう気分でやってみたら、おれの「酢豆腐」ができるんじゃないか、と思ったりもしたのだ。

で、やってみたよ。やってて楽しかった。客前でやり慣れてくれば、何とかなりそうだ。


この間、八代目桂文楽の「酢豆腐」を、久し振りにCDで聴いた。

黒門町の最大の功績は、あの若旦那だろうな。あれは文楽が、実在の芸人、三遊亭円盛という人をモデルにして造形したものだ。三遊亭圓盛、通称「イカタチ」。「イカの立ち泳ぎ」からきている。奇人として知られ、それがぴたり「酢豆腐」の若旦那にはまった。以後、「酢豆腐」の若旦那は文楽のものが基本形になっている。


三遊亭圓盛について、『古今東西 落語家事典』(平凡社)には、次のように書いてある。

本名、堀善太郎。明治2年1月2日生まれ、初め梅松亭竹寿門人、梅の家小竹を名乗る。後、遊七(三代目圓橘)門に転じ七福。明治30年頃、二代目小圓朝門で圓盛となる。「イカタチ」というあだ名と奇人ぶりが有名。志ん生の最初の師といわれる。没年は未詳だが、大正前半まではいたらしい。


文楽もまた有象無象の若者たちを、実に楽しそうに演じているんだよなあ。実際、怒るべきところも笑ってさえいるのだ。

京須偕充が『志ん朝の落語6』の「酢豆腐」の解説で、志ん朝の方は「若い衆一同が職人らしい。全員が遊び人めく文楽より現実味がある。」と書いている。なるほど。

確かに文楽の方は、いちいち皆、末枯れている。素人じゃあない。

ここで私は、文楽が若手の頃、落語家仲間で「幸先組」という組合を結成していたことを思い出す。メンバーは春風亭柏枝(六代目柳橋)、柳家さん三(三代目つばめ)、寿司家弥輔、六代目柳家小三治、春風亭梅枝(柳窓)、そして翁家さん生から馬之助になる頃の文楽だった。当時、文楽は二十代半ば、いわば幸先組は、若者の有象無象の集団だった。とすれば、「酢豆腐」の若い衆を演じる時、文楽は彼らとの日々を思い出してはいなかったか。そうなると「全員が遊び人めく」のも無理はない。

中でも春風亭梅枝と文楽はウマが合ったという。梅枝も奇人であったようだ。もしかしたら、「あります、あります」「そりゃあ私は銭はない、銭はないけど刺身は食う」の男は梅枝だったのではないか、と想像すると楽しくなる。

2022年8月16日火曜日

送り盆

今日でお盆の長い休みも終わり。


14日は新盆回りをして、夕食は妹と甥二人をまじえて宴会。刺身、妹と妻が揚げた天ぷらなどでビール、酒を飲む。酒はこの前父と買って来た、取手の地酒「君萬代」。旨かったよ。


15日は、まず家の墓に参ってから、牛久へ行って義父の墓参り。


夕食はホットプレートを出して焼肉にする。ビール、菊正宗樽酒、旨し。


今日は妻が仕事。八代目桂文楽の「酢豆腐」をCDで聴く。黒門町は実に楽しそうにこの噺を演る。全ての場面を演じて19分。私は30分かかる。

昼にはうどんを茹でて子どもたちと食べる。

午後はお盆の飾りの片付け。皆でご先祖様を送って行く。

久々の猛暑日になる。暑い。

母の実家の地区では「盆綱」という風習がある。藁で作った大蛇を担いで子どもたちが練り歩くというものだ。13日は大蛇に乗ってご先祖様がやって来る。子どもたちは「仏様ござった」と言って、集落の家々を回る。子どもたちはそこで小遣いやお菓子をもらう。15日は大蛇に乗ってご先祖様がお帰りになる。「仏様お帰りだ」と言いながら13日とは逆コースを辿る。子どもは大分少なくなったが、今も行われているという。

夕食は、ドリア、スープ、サラダ。今日は休肝日にする。


6連休か。休みは長かったが、何にもしてないなあ。

豆ちゃんも今日は寝てばかりいた。