以前、若の川留吉という明治時代の力士についての記事を書いた。
小美玉市野田、若の川留吉記念碑
その若の川の人となりを伝える文章があった。『東茨城郡誌』、昭和2年に発行された本にそれは収められていた。原文は厳めしい文語体なので、平易な文に直して以下に紹介する。
貝塚留吉。通称は留次郎。安政4年4月5日、大字野田六番屋敷に生まれた。
貝塚平次郎氏の次男で、体格に優れ、豪放で細かいことにはこだわらない性格だった。
18歳の頃には怪力を発揮、小川町に米を売りに行く時は玄米2俵を綱でつなぎ、両掛けで担いで運び見る者を驚かせた。小川町伊能家の庭では米4俵を両肩に担いで歩いて見せた。
18歳の暮れ、兄の力士、荒鹿大五郎に連れられて仙台地方を巡業し、初めて力士となって技を磨いた。程なくして家に帰ったが、田舎相撲ではその右に出る者はなく、とうとう上京して高砂満五郎に入門した。以来、鍛錬を重ね、数年の後には進境著しく、「負けない相撲若の川」の異名を東都相撲界にとどろかせた。
幕下時代のある年、名古屋、大阪を巡業した時は全戦全勝の成績を収めた。22歳で入幕、体力気力充実し、その精悍な相撲は三役力士からも恐れられた。たちまち前頭四枚目に進む。興行中の余興では米20俵を全身に付けて土俵を3周して観客を驚嘆させたという。
27歳の時、東京回向院本場所の興行中、黒人が飛び入りして「相手をしろ」と言う。容貌、体格、いかにも不気味で、両大関すらためらっていたが、それを見るや若の川、決然として土俵に上った。「さあ来い」と、両者組み合うと、観客は固唾を飲んで土俵を見守る。若の川、その怪力で得意のすくい投げを打てば、さすがの黒人ももんどりうって土俵から転がり落ちた。満場の歓声は江東の天地をも揺るがすほどだったという。
大関候補として押しも押されもせぬ地位を築き、将来有望の身ではあったが、不運にもやむを得ぬ事情で東京力士団を退き、大阪相撲、熊ヶ嶽の一行に加わって、奥羽、北海道を巡業した。
間もなく上京し、大関大道の門に入り、帰り新参として再出発したが、37歳で病を得、勇退する。郷里野田で療養数カ月、再び上京し、かつての教え子、常陸山谷右衛門を頼り、その客分力士となって、50歳近くまで幕下の名力士として土俵に上がっていたが、ついに郷里に帰って余生を送ることになった。大正4年12月17日、病死。享年57だった。
若の川は、身長五尺八寸(173cm)、体重三十四貫(127.5㎏)。筋力発達し初代雷電を思わせた。運慶の仁王のような体躯であったが、顔つきは温和、性格は任侠を好み無欲であった。妻は岩手県胆沢郡前沢村大字前沢、千葉源吾の二女。二人の間に五女を得た。若の川の実兄平吉は田舎相撲の大関だった。実弟丑次郎も東京力士となり、若の浦丑松と名乗って幕下十両まで進んだ。末弟平次郎もまた東京力士で三段目の優位に列した。一家こぞって力士というのも珍しい。
若の川の記念碑は彼の住居前、県道わきに建ててある。
石碑の人だった若の川の生涯がいきいきと描かれている。回向院で飛び入りの黒人を投げ飛ばしたところなどは、まさに名場面と言っていい。
若の川記念碑はこちら。
若の川の住居跡は更地になっている。