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2023年1月29日日曜日

土日の日記

昨日の日記。

朝、御飯、味噌汁、ハムステーキ、納豆。

長男が学校に行くというので土浦駅まで送る。そのまま「みほ落語会」へ。

準備を済ませ、ヨークベニマルで買って来た稲荷寿司と海苔巻きの弁当で昼食をとる。

心配された雪も降らず、良い天気。気温は低い。

私は「権助提灯」でトリを務める。マクラからよく笑っていただけた。

片付けをして、5時半過ぎに帰る。

夕食はハムカツ、肉ニラ炒めで酒。

食後に、セゾンカードの永久不滅ポイントで換えたラフロイグを飲む。スコットランド、アイラ島のウィスキー。同じアイラ島産のボウモアよりもスモーキーな感じ。これもまた旨し。

寝しなに、ボウモアも飲む。旨いなあ。


 

今日の日記。

朝、パン、コーンスープ、チキンナゲット、スクランブルエッグ。

天気がいいので布団を干す。

猫を膝に抱いて日向ぼっこをしながら、庄野潤三『せきれい』を読む。

昼は妻がそばとおにぎりを作ってくれた。そばには昨夜の肉ニラ炒めが載っている。旨し。

妻とケーズデンキ。グリル鍋が壊れたので、新しいのを買う。

妻と夕方ビール。

夕食は豚しゃぶ、しりしりで酒。シメのうどんまでしっかり食べる。旨し。

食後にラフロイグ。


先週は雪が積もった。雪の日の大洗の写真を載せる。





2023年1月24日火曜日

茨城の冬の味覚、鮟鱇鍋

先日、父が叔母(母の妹)を昼飯に連れ出すというので、運転手をやる。

叔母をピックアップして那珂湊のお魚市場へ。

けっこうな人出だなあ。アジア系の外国語も飛び交っている。

叔母は、せっかく那珂湊に来たのだから鮟鱇鍋を食べたい、と言う。

さすが父は太っ腹、市場内の食堂で1人前3000円の鮟鱇鍋を振舞う。

それがこちら。

鮟鱇の七つ道具がずらり。

それを味噌味のスープで煮込む。

あん肝があると酒が飲みたくなるなあ。

シメはおじやで。

酒は飲めなかったが旨かったねえ。

父はお土産に冷凍牡蠣とホタテを買う。年寄りの買い物は豪快だ。

私はイカのみりん干しを買った。1枚1000円、ずいぶん高くなったような気がする。


 

その日の晩飯は牡蠣鍋にした。酒は先月買った霧筑波「初しぼり」。旨いんだ、これが。


2010年2月、高山T君と大洗で鮟鱇鍋を食べた記事のリンクを貼っておく。あの頃は写真を載せていなかったんだなあ。

鮟鱇鍋ツアー① 鮟鱇鍋ツアー② 鮟鱇鍋ツアー③

2023年1月21日土曜日

「水戸八景・巌船夕照」

先日、大洗の願入寺をお参りしてから、海門橋のたもとにあるロードパークに車を止めて少し歩いた。

案内板を見ると、「水戸八景・巌船夕照」の石碑があるというので見に行く。それが、これ。



 崖下に涸沼川と那珂川の合流点が見える。夕照とはいかず、午後の陽射しの中であったが、それは優美な眺めでありました。



水戸八景は、天保年間、水戸藩九代藩主烈公徳川斉昭が選定した。

中国の名勝、瀟湘八景が元祖。それにならって我が国でも「近江八景」や「金沢八景」ができた。近江が室町、武蔵国金沢が鎌倉時代の選定というから、水戸の方はかなり時代が下る。まあ斉昭公は偕楽園を作ったり弘道館を作ったりしているので、こういうの好きだったんでしょうなあ。

水戸八景は次の通りである。「青柳夜雨」(水戸市)、「太田落雁」(常陸太田市)、「山寺晩鐘」(常陸太田久昌寺)、「村松晴嵐」(東海村)、「水門帰帆」(ひたちなか市那珂湊)、「巌船夕照」(大洗町)、「広浦秋月」(茨城町涸沼湖畔)、「僊湖暮雪」(水戸市偕楽園・千波湖を望む南崖)。

広浦の写真もあった。残念ながら秋でもなければ月夜でもない。



広浦にはキャンプ場があって、若い頃はここでよくキャンプ酒を飲んだものだ。いい所だよ。


こちらは願入寺、浄土真宗の名刹である。山号は「岩船山」。「巌船夕照」の命名はこれに因んでいる。


2023年1月17日火曜日

年末年始の外食

年末年始の外食をまとめてみた。


まずは大洗の大進、日替わり定食、1200円。限定10食とのことで奮発しちゃいました。



刺身と豚の生姜焼きという黄金タッグ。刺身となると飲みたくなるけど、この組み合わせだと飯もいいね。

商店街にあって、街並みもそそる。店内にはガルパン関係の色紙もいっぱい飾ってあります。



大洗といえば、おなじみ柳屋食堂。

まずは五目ラーメン、800円。あんかけじゃない五目ラーメン。私は昔ながらのこっちが好き。店によっては、ハムとか伊達巻とかも入る。おせちみたいで、そういうのもいい。正月明けに優しいお味。



もうひとつ、カツ丼、850円。この頃、食べる回数は減ったけど、やっぱりカツ丼は大好き。食堂メニューの王道だよな。当たり前に旨い。




稽古帰りのラーメン屋。土浦ラーメン、野菜たっぷりラーメン、950円。今回は味噌にした。味噌、合いますなあ。

ちょっとピントが甘い。


最後は鹿島神宮参道のお蕎麦屋さん。創業は室町時代とのこと。九割蕎麦のとろろそば、1200円。




2023年1月16日月曜日

八代目桂文楽の葬儀

八代目桂文楽の葬儀の画像が手に入った。

我々の大学落研OBのLINEに、初代風柳さんがアップしてくださったのである(私は現役時代、風柳の三代目を継がせていただいた)。

初代さんは、私にとっては雲の上の大先輩。今も「たちばな家半志樓」の名前で高座に上がっていらっしゃる。画像をブログに掲載することについて許可を申し出たところ、快諾してくださった。

以下、その画像を紹介する。まずは祭壇の写真。

遺影の向かって左側には秩父宮、右側には当時の落語協会会長、三遊亭圓生からの献花がある。秩父宮殿下は昭和28年に亡くなっており、これは宮家による献花であろう。殿下は文楽を贔屓にされており、その交流は『あばらかべっそん』に詳しい。



こちらは参列者の写真。左の写真には三遊亭圓生が写っている。彼は葬儀委員長を務めた。

右の写真は文楽一門。左から桂文平(現六代目柳亭左楽)、林家三平(文楽門下七代目橘家圓蔵の弟子)、桂小益(現九代目桂文楽)、橘家二三蔵(三平と同じく圓蔵の弟子)。小益と二三蔵の間から顔を覗かせているのは三遊亭さん生(後の川柳川柳)だろうか。


八代目桂文楽の葬儀は、昭和46年(1971年)12月18日午前11時から浅草・東本願寺において落語協会葬として執り行われた。当時の新聞記事によると約2000人が参列、会葬礼状には「いま更にあばらかべっそんの恥かしさ」という句が添えられていた。

葬儀では三遊亭圓生が弔辞を述べた。以前にもその一部をブログに載せたが、ここに全文を紹介しよう。(出典は『CDブック・完全版・八代目桂文楽落語全集』による)

  弔辞(桂文楽師匠へ)

 桂文楽文楽師匠・・・いや、そんな改まった言葉はよそう。文楽さん、貴方とは随分古いなじみでしたね。貴方が小莚の前座時代で、私は圓童といったまだジャリでした。あの当時三筋町のむらく師匠・・・後の圓馬師匠の所へ毎日噺の稽古に通いましたね。死んだ四代目の小さんさんも一緒で、八、九人がせまい二畳の座敷に肩を押し合っていた頃・・・思えば六十年前位になるでしょう。其の後お互いに、商売の関係で一緒になったり別れたり、いろいろな変遷はあったが、戦前お互いに落語協会に入ってからは、貴方とは一つ倉に入って、芸の上でも位置の上でも貴方は先輩として立っていられた。そして貴方は早くから売り出して、すでに馬之助時代から若手としての売れっ子になり、中堅となって貴方は益々芸は上達した。四代目小さんの無き跡は落語協会を背荷って立ち、外面内面ともに納めて行かれた事は並大ていのことではなかったろうとお察し致します。
 尚私が云いたいのは戦後、人心の動揺、人情、生活と、以前とは移り変わり行く世相で、勿論落語界も、世間のあおりを喰い、動揺をしたその中で、貴方の芸は少しも、くずれなかった。我れ人ともに時流に押し流されやすい時に貴方は少しもゆるがなかった。悪く云えば貴方の芸は、融通が利かない、無器用な芸だとも云える・・・ごめんなさいね・・・だがそれがよかったのだと思う。なぜならば、戦前の通りに少しも芸をくずさずに演った、それが立派な芸であれば客はよろこんで聞いてくれるのだ、これで行けるのだと、人々に勇気をあたえた。今日の落語界に対して貴方は大きな貢献をされた事を私は深く深く感謝しております。
 いつまでも生きて居てほしかったが、生あるものは一度は死なねばならぬ時が来る。貴方との長い別れになることは、思えば悲しい事である。だが貴方は芸ばかりでなく、人として人情の厚い方だった。私が満州から帰れなかった時にも、留守宅へ見舞ってくれたのは、貴方と、圓蔵君の二人だけだった。しかも二度までもたずねて私を心配してくれたという事を、家内から聞きました。人に対しての思いやりもある貴方の人格が、即ち芸に出て、丸味のある、ふっくらとした芸が生まれたのである。
 文楽さん、長い長い貴方との交際もこれで終わりになりました。いろいろと今までのことをお礼を申し上げます・・・では左様なら。
   昭和四十六年十二月十八日


もうひとつ、いただいた画像。


昭和46年の正月二之席、新宿末広亭のポスターである。夜の部主任は文楽。

柳家小満んの著書によると、昭和36年以降、文楽がトリをとるのは、人形町末廣、上野鈴本の初席、新宿末広亭の二之席、それから新宿末広亭のお盆興行(7月中席)だったという。その年の7月中席、文楽は生涯最後の寄席でのトリを務められたのだろうか。

2023年1月11日水曜日

若の川留吉の生涯

以前、若の川留吉という明治時代の力士についての記事を書いた。

小美玉市野田、若の川留吉記念碑 

その若の川の人となりを伝える文章があった。『東茨城郡誌』、昭和2年に発行された本にそれは収められていた。原文は厳めしい文語体なので、平易な文に直して以下に紹介する。


貝塚留吉。通称は留次郎。安政4年4月5日、大字野田六番屋敷に生まれた。

貝塚平次郎氏の次男で、体格に優れ、豪放で細かいことにはこだわらない性格だった。

18歳の頃には怪力を発揮、小川町に米を売りに行く時は玄米2俵を綱でつなぎ、両掛けで担いで運び見る者を驚かせた。小川町伊能家の庭では米4俵を両肩に担いで歩いて見せた。

18歳の暮れ、兄の力士、荒鹿大五郎に連れられて仙台地方を巡業し、初めて力士となって技を磨いた。程なくして家に帰ったが、田舎相撲ではその右に出る者はなく、とうとう上京して高砂満五郎に入門した。以来、鍛錬を重ね、数年の後には進境著しく、「負けない相撲若の川」の異名を東都相撲界にとどろかせた。

幕下時代のある年、名古屋、大阪を巡業した時は全戦全勝の成績を収めた。22歳で入幕、体力気力充実し、その精悍な相撲は三役力士からも恐れられた。たちまち前頭四枚目に進む。興行中の余興では米20俵を全身に付けて土俵を3周して観客を驚嘆させたという。

27歳の時、東京回向院本場所の興行中、黒人が飛び入りして「相手をしろ」と言う。容貌、体格、いかにも不気味で、両大関すらためらっていたが、それを見るや若の川、決然として土俵に上った。「さあ来い」と、両者組み合うと、観客は固唾を飲んで土俵を見守る。若の川、その怪力で得意のすくい投げを打てば、さすがの黒人ももんどりうって土俵から転がり落ちた。満場の歓声は江東の天地をも揺るがすほどだったという。

大関候補として押しも押されもせぬ地位を築き、将来有望の身ではあったが、不運にもやむを得ぬ事情で東京力士団を退き、大阪相撲、熊ヶ嶽の一行に加わって、奥羽、北海道を巡業した。

間もなく上京し、大関大道の門に入り、帰り新参として再出発したが、37歳で病を得、勇退する。郷里野田で療養数カ月、再び上京し、かつての教え子、常陸山谷右衛門を頼り、その客分力士となって、50歳近くまで幕下の名力士として土俵に上がっていたが、ついに郷里に帰って余生を送ることになった。大正4年12月17日、病死。享年57だった。

若の川は、身長五尺八寸(173cm)、体重三十四貫(127.5㎏)。筋力発達し初代雷電を思わせた。運慶の仁王のような体躯であったが、顔つきは温和、性格は任侠を好み無欲であった。妻は岩手県胆沢郡前沢村大字前沢、千葉源吾の二女。二人の間に五女を得た。若の川の実兄平吉は田舎相撲の大関だった。実弟丑次郎も東京力士となり、若の浦丑松と名乗って幕下十両まで進んだ。末弟平次郎もまた東京力士で三段目の優位に列した。一家こぞって力士というのも珍しい。

若の川の記念碑は彼の住居前、県道わきに建ててある。


石碑の人だった若の川の生涯がいきいきと描かれている。回向院で飛び入りの黒人を投げ飛ばしたところなどは、まさに名場面と言っていい。

若の川記念碑はこちら。




若の川の住居跡は更地になっている。

2023年1月9日月曜日

成人の日

朝、御飯、吸い物、ベーコンエッグ、明太子。

『殺人犯はそこにいる』(清水潔・新潮文庫)読了。足利事件の渾身のレポート。ドラマ『エルビス』の元ネタが満載だ。『エルビス』のように権力が絡まなくても冤罪は発生する。いや、ほぼ普通の人が冤罪に巻き込まれる。解決が難しい事件ほど、警察はストーリーを描き、それに沿う人間を犯人にする。足利事件で逮捕された人が変質者に仕立て上げる過程には戦慄させられる。我々は「普通に生きていればそんな目には遭わない」と信じ切っているが、そんな考えは甘いということがこの本を読めば分かる。冤罪を訴えながら死刑になった人さえいるのだ。

今日の昼は妻が作ったナポリタン。旨し。まさに休日の昼飯。

午後は石岡に散歩に行く。








光線の具合が絶妙だな。

こまごまとした買い物をして帰る。

おやつはカステラ。紅茶を飲む。妻と夕方ビール。

夕食はあり合わせおでんで酒。食後にボウモアを飲む。


今日は成人の日。この前、新成人となった次男のために、妻がチーズケーキを作る。旨し。

高校生のうちに成人かあ。実感がわかないなあ。

私の時は、もちろん20歳成人で、成人の日も1月15日だった。住民票を川崎に移していたので、本来は川崎市の式に出るべきだったが、私は田舎の方の式に出ることにした。

翌日が英語の試験だったので、日帰りの日程。帰ってすぐスーツに着替えて式に行ったのだと思う。公民館で式があり、懇親会があり、皆で車で分乗して大洗に行った。二次会は当時あった「ひたち野」というレストランだった。飲んで騒いで、あわただしく石岡から急行列車に乗って川崎へ帰った。

昨夜、夕食の席で、私が成人式に帰って来たのを祖母がとても喜んでいた、と父が言った。もっとゆっくり家にいるんだったなあ、と今頃になって思う。

長男は昨年、成人式に行かなかった。

まあ、人それぞれだな。それぞれに成人に対する向き合い方がある。それでいいんだ。

2023年1月5日木曜日

常総の街並み

先日、父と常総に行った時、街並みを撮った。まあ、のんびり街歩きとはいかなかったけどね。

何にせよ、初めて歩く街で面白かった。その時の写真を載せてみよう。

まずは水海道の街並み。

元は銀行だった建物

「江戸屋薬舗」とあるので、薬屋さんだな。


駅前通りのアーチ。

その奥に火の見櫓がある。

素晴らしい。

先ほどのアーチを裏から。




さすがに下館、下妻と並ぶ県西地区の中核をなす市街地、見応えがある。1時間ぐらい時間をかけて歩きたかったが、父と一緒だったので、ざっと一通り見て回っただけにした。看板建築なんかもあったのだけれど、撮れなかったよ。残念。また、次の機会にしよう。

建物が減って車を止めやすくなったか。便利にはなったが、寂しいなあ。


お次は石下。






こちらも、ささっと撮って退散。昔、車で通った時はもっとお店がいっぱいあって、賑やかだったよなあ。