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2012年7月12日木曜日

川崎市八丁畷

ここんとこ古い写真をデジカメで接写するのにハマっている。 ブログに載せている古い写真が、実はそれなのだ。
今日のは、京浜急行と、JR南武線の支線である浜川崎線が交差する、神奈川県川崎市八丁畷である。
この近くには私の親戚の家がある。
私が学生の頃は、伯父も伯母も健在だった。その当時、私は週一ぐらいでここに通い、風呂に入れてもらい、晩御飯をご馳走になった。伯母手製のクリームシチューが旨かった。
伯母は私の家から嫁に出た人である。私の家系は少しばかり複雑なので、説明がややこしい。まあ伯母は伯母である。
だから、幼い頃から、私にとって都会は川崎であった。 初めてプロ野球の試合を観たのも、川崎球場の、大洋ホエールズ対中日ドラゴンズだったし、ランドセルを買ってもらったのも、初めてクリームソーダを食べたのも、さいか屋であった。
大学受験の時も、この伯母の家に泊まった。この八丁畷駅前の本屋で、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を買い、受験勉強どころではなくなってしまったのも、いい思い出である。
下は1980年代頃まで八丁畷商店街にあった八百屋さん。

2012年7月9日月曜日

石岡市高浜

石岡市高浜。 かつて霞ヶ浦の舟運で栄えた古い町。
『常陸風土記』にも風光明媚な場所として描かれ、古代の人々の舟遊びの様子とともに、「高浜に 来寄する波の 沖つ波 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば」という歌も詠まれている。
もはや流通の要衝としての役目を終え、私が子供の頃には普通の田舎町だった。
今は道路沿いの味のある建物も大分減った。寂しいけどしょうがないか。
下の写真は白菊酒造の廃工場。現在はセブンイレブンになっている。

2012年7月5日木曜日

1984年の北茨城

1884年頃。たぶん北茨城市の大津港辺り。
前方の白のホンダ・シティが当時の愛車。燃費は驚異のリッタ22キロ。エアコンは入っていない。 今のミニもエアコンなし。私の車事情はちっとも進化していないな。
同じ場所の写真をもう1枚。この辺は津波の被害はどうだったんだろう。

2012年7月2日月曜日

伝助の根多帳④

『猫の災難』についてもう少しだけ。
この噺で私は「みな好き会」の仲トリをとった。二つ目で対外発表会の仲トリは珍しい。これは当時真打が三代目松風亭紫雀さん一人しかいなかったからだ。 うちの落研では羽織を着ることができるのは真打だけだが、仲トリということで、この時だけ特別に、紫雀さんの羽織を借りて着た。
国文科の仲間も観に来てくれたが、評判は良かった。「お前の噺を聴いて、酒が飲みたくなった。」とW君は言ってくれた。
「みな好き会」が終わって間もなくのことだったと思う。落語評論家の山本益博が「学生の落語を聴いてみたい。」と言い、どこをどうしてそうなったかは知らないが、うちの落研に依頼が来た。そこで、紫雀さん、弥っ太君、そして私が行くことになった。
下北沢だったかなあ、とあるマンションの一室だった。私たちの前には漫才のコンビがネタを見せていて、随分きついことを言われていた。「おれらは見せてくれというから来たんで、頼んで見てもらう訳じゃないんだがなあ。」と私は思ったものだ。(だって、皆マジなんだもん。)
とにかく張りつめた空気の中、私たちは落語を演った。演目は、最初に弥っ太君が『鮑のし』、次に私が『猫の災難』、最後に紫雀さんが『寝床』だった。目の前には、あの山本益博の髭面がある。隣には神津友好がいたかな。3人とも、大体10分もせずに「もういいよ。」だったね。
皆、言われたことは「その落語で言いたいことは何か。」ということ。今思えば、立川流理論の走りだったかもしれない。
私は枕で使った「説得力」という言葉を誉めてもらった。「自分の言葉で喋っているのがいい。」とのことだった。その後、持論である「職人には職人の声がある。声での人物描写があるはずだ。」というようなことを言われた。私の声があまりどっしりとした声ではなかったからか。五代目柳家小さんの声こそが職人の声だと言っていたな。
私は『猫の災難』で何が言いたかったか。当時、山本益博は私の答えを待ってくれなかったけど、私はこう答えたかった。
「言いたいことは特にないけど、気持ちよく酔っ払いたい。」

2012年6月29日金曜日

あれから1ヶ月

あれから1ヶ月。
病院から説明あり。目覚ましい回復とのこと。 ここ数日で、急に退院の話になる。
そうは言っても、初の介護。受け入れの側では不安が大きい。
ここのところ意見の相違やら、意思の疎通の行き違いなどでがさがさした雰囲気になる。
双方の連絡、調整。家でも職場でも、私の役回りはそれ。ちょっとだけ、ため息が出る。
とりあえず、週末外泊して、来週には退院の運びとなる。
ケアマネージャーも決まった。今後、色々とアドバイスをいただくことになる。
親が弱るのは寂しい。だけど、今まで優しい子ではなかった私に、今回の一件で神様はひとつのチャンスをくれたのかもしれない。父が母をいかに愛しているかも分かったし。
これからが日常。皆で気負わず無理せずやっていこうな。

夜は長男の誕生会。しゃぶしゃぶで黒ビール、酒。

2012年6月25日月曜日

霞浦劇場


土浦、霞浦劇場。
昔、私はここで『竜二』を観た。 私はあまり映画を観る習慣がないが、この映画には鮮烈な印象がある。
脚本、主演の金子正次が、何と言っても格好良かったなあ。上手くはないけど、圧倒的な存在感があった。
子分の役で、北公次、佐藤金造、妻に永島暎子といった脇役陣もよかった。主題歌は萩原健一の『ララバイ』。(このショーケンの歌がまたかっこいいのよ。)
主演の金子は、この映画で世に出たが、公開間もなく癌で死ぬ。鮮やかな光芒を放ち、あっという間に消えて行った。
シナリオ集『竜二・ちょうちん』、評伝『ちりめん三尺ぱらりと散って』も読んだけど、面白かったなあ。
この映画館もなくなって随分経つ。いい味出してたんだけどな。(ここで山本奈津子主演『濡れて打つ』なんてのも観ましたけどね。)

2012年6月21日木曜日

そうか、森田童子がいたんだ

大福さんのブログを読んで、森田童子のことについて書きたくなった。
森田童子を知ったのは、高校生の時だ。友川かずきがディスクジョッキーをしていた「若いこだま」というラジオ番組で『さよならぼくのともだち』を聴いたのだと思う。(私はこの番組で、三上寛、なぎらけんいち、ジャニス・ジョプリンなどを知った。)甲高い繊細なその声を聴いて、私はケイト・ブッシュみたいだと思ったのを憶えている。
石岡のレコード屋で、童子のデビューアルバム『グッドバイ』を見つけて買った。ジャケットの彼女は、もじゃもじゃのカーリーヘアに丸いサングラスをかけ、革ジャンを羽織っていた。まるで少年のような容貌で、「ぼく」と「きみ」の歌を歌う童子は、性を超越した存在に思えた。
保育園から高校まで一緒だったH君から『マザースカイ』と『ア・ボーイ』の2枚のアルバムをダビングしてもらった。私はこの3本のテープを持って、川崎のアパートに引っ越していった。
特に『マザースカイ』は好きだったな。1曲目の『ぼくたちの失敗』からラストの『今日は奇蹟の朝です』まで、緊密な統一感にあふれた、まさにトータルアルバムと呼ぶべきものだった。
1980年に出た『ラストワルツ』。これも買ったが、これを川崎の四畳半で聴いていると、我ながらやばいと思った。このままいったらまずいよなあと、『たとえばぼくが死んだら』を聴きながら思ったものだ。

そういえば、昔聴いた、なぎらけんいちのライブアルバムで、なぎらがこんなことを言っていた。
山崎ハコの歌を聴いていると、条件反射的に暗くなって死にたくなる。そこで『パブロフのハコ』という歌を作った。
ハコも暗いが、森田童子は超弩級に暗い。以前ツアーで一緒に回った時があった。ある街で、宿で打ち上げをやったが、そのうち外に出ようということになった。童子も誘ったが行かないという。そこで「じゃあそこにいて」と言って皆で出かけた。
2、3時間して帰ってくると、童子は出かけるときと寸分たがわぬ姿勢で同じ場所に座っていた。

深入りすると危険だという雰囲気と、深入りせずにはいられない魅力が森田童子にはあった。(ラストアルバムとなった『狼少年』も、私はしっかり買った。)
大福さんも書いていたが、ドラマ『高校教師』での森田童子ブームには違和感を覚えたな。あの時発売されたベスト盤は90万枚以上売れたという。当時は意地でも買わなかったけど、今思えば、90万人の人が童子の歌に心を揺さぶられたということなのだな。
あのブームでも、森田童子は表に出なかった。新聞記者の取材には、「今は普通の主婦なのでそっとしておいてほしい」と言ったという。
現在、森田童子と道ですれちがっても誰も彼女とは気がつくまい。しかし、カムバックしないということは、今の生活が彼女の守りたい幸せなのだろう。
そうか、あの森田童子が主婦か。よかったなあ。彼女が平凡な幸せを手に入れたことは、私にとってもささやかな希望に思えてくる。
森田童子、間もなく60歳に手が届くはずである。