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2016年8月6日土曜日

忌野清志郎完全復活祭武道館ライブ


この前BSでやった「忌野清志郎完全復活祭武道館ライブ」を録画しておいたのを、妻や子どもが寝静まった後に観た。だいたい3日ぐらいかかったかな。
2008年2月、喉頭癌からの完全復活を宣言して、清志郎は武道館のステージに立った。2時間を超えるライブを、咽喉の癌の影を微塵も見せず歌い切る。今流行の歌詞やコードを映し出すモニターなんかない。明瞭な発音で、歌詞もよく聞き取れる。まさに完璧なステージだった。
一方、サイケな衣装でキメながら、足元のブーツには、カタカナで「ブーツ」と書いてあったりして、それがいかにも清志郎らしくて嬉しくなった。
バンドのメンバーも清志郎の生還の喜びを体中で表現している。盟友仲井戸麗一のプレイも神がかった所があったよ。ホーンセッションもかっこいいなあ。おっ、ツインドラム。ジョン・レノンの「ワン・トゥー・ワン・コンサートライブ」を意識しているのかしら。
清志郎自身、ビートルズやボブ・ディランが立ったこの武道館のステージを復活祭の舞台にできたことに感動しているようだった。最後は涙を浮かべながら歌っていた。
私も泣きながら画面を見ていた。悲しいことに、私たちはこの後のことを知っている。忌野清志郎は翌2009年5月にこの世を去ることになるのだ。
清志郎の復活は、まさに一瞬だった。しかし、その一瞬は永遠になる。清志郎の歌声は、永遠に私たちの胸に刻み込まれる。

私は泣きながら画面に向かって呟く。
「奴ら」は手強いよ。分断と憎悪を煽りたて、いつの間にか世の中をこんな風にしてしまった。何となく、皆が「奴ら」の言うことを正しいと思っているような気にさせられている。真面目に異議を唱えても、皆聞き流されてしまうんだ。やばいよな。どうしたらいいんだろう。
分かっている。清志郎はもういない。いても答えなんか与えてくれない。清志郎は清志郎の思う所をストレートな言葉でぶつけてくるだけだ。
ならば、私も私の思う所を言葉にしていこう。ちっちゃな声だし、分かりづらい表現をとったりもするだろうけれど。

清志郎とチャボ。
この二人見てると幸せな気分になる。

2016年8月3日水曜日

1998年の熊本城


熊本には2回行った。いずれも職場の仲間との旅行だった。
1998年の3月に行った時は、まず大分空港に降りて、別府に1泊し、阿蘇山を通って九州を横断し熊本に入った。
まさに今年4月に起きた大地震で被害のあった所を通って来たことになる。
南阿蘇辺りの変わり果てた映像を見ると、心が痛む。

写真は熊本城。まずこの巨大さに圧倒された。天守閣は明治の西南戦争で焼け落ち、再建されたものだが、櫓などには当時の遺構も残っていた。
下の写真はその代表格の宇土櫓。櫓といっても、普通の城だったら天守閣級の規模である。
黒壁の武骨な佇まいがいい。



揺れている時の映像を見たが、天守閣の屋根から土埃が立っているのが見えた。瓦が落ちているのだ、ととっさに思った。
後に被害の状況が明らかになる。石垣は崩れ、多くの建物が甚大な被害を受けた。西郷軍の猛攻に耐えた堅固な城塞は、自然の猛威の前に無残な姿をさらすことになった。

非日常が日常になる。これは私たちが東日本大震災で経験したことでもある。
しかし1歩1歩少しずつだが、復興への道は続く。
熊本城にもいつか以前の姿を取り戻す日がやって来ると信じたい。

2016年7月31日日曜日

牛久かっぱ祭


「牛久かっぱ祭」に合わせて、妻の実家に泊まりに行く。
広島に嫁に行った義妹も久々の里帰り。賑やかな週末となった。
祭りといっても、神事に関係するものではない。新興住宅地の親睦で始まったお祭りだ。
とはいっても、40年近い歴史を持ち、牛久市民の根っこのところを繋いでくれている。
各団体が趣向を凝らし、かっぱ囃子を踊りながら練り歩くパレードは、壮観でもある。
子どもたちを夜店で遊ばせ、晩飯のおかずを屋台で買って帰る。
たこ焼き、モツ煮、ハラミ焼、焼鳥、ピザなんてところをつまみながら、ビール、酒。
久しぶりに会ったいとこ同士、皆仲よく遊んでいる。こういう光景を眺めながら飲む酒は、一段と旨いもんだねえ。

以下、かっぱ祭の様子です。今年は牛久市制35周年だそうです。








2016年7月27日水曜日

三叉路特集

三叉路、というのになぜか心惹かれる。
一つの道が二つに分かれ、そしてその間には何らかの隔てるものがあり、二つの道は無交渉になりながらも、まるでパラレルワールドのように奥へと延びていく。日常の中に潜むちょっと不思議な風景。荒木経惟が好んで撮る題材で、横尾忠則などは「三叉路」だけで1冊の写真集を作ってしまった。
私も影響を受けていたんでしょうなあ、撮りためた写真を見返してみると、けっこう三叉路を撮っている。
では少しだけ、「三叉路特集」です。

土浦。
雨に濡れた路面がいい。

上の写真と同じ場所。
カラー、晴天で大分雰囲気が違う。

愛知県瀬戸。
真ん中のうどん屋さんがいい味出してるなあ。

上の写真から、ちょっと引いた所。
周りの家並みもいいよねえ。

川崎。

これも川崎。歩道橋の上から。

行方市玉造。

浅草。

大洗。

狛江。

これは沖縄。

2016年7月24日日曜日

この週末

ここんとこ、陽射しはあっても涼しい日が続いている。
夏もこんなもんでいいな。ここ数年のような猛暑は勘弁してほしい。

昨日は1日家でごろごろ.前の晩、地元の先輩に呼び出され、ちょいと遅くまで飲んでいたもので。
昼前に次男が下の畑へブルーベリーを摘みに行くというので付き合う。
彼は体を動かすのがあまり好きではないが、こういう作業は好きなのだ。

これも夏の味だねえ。

前の山を見ると、山百合が見頃を迎えていた。


今日は、長男の部活のコンクールを観に行く。
これで部活も引退。よく頑張ったな。
夕食は、長男のリクエストで手巻き寿司。それに長男が好きな焼き鳥も買い足す。
皆でわいわい美味しくいただきました。

2016年7月20日水曜日

火の見櫓

この辺りは田舎なもので、火の見櫓がそこここにある。
大体は消防団の分団詰所の近くだ。
しゅっとした細長い鉄塔に三角状の屋根があり、半鐘がぶら下がっている。

半鐘といえば、古今亭志ん生・志ん朝親子の十八番『火焔太鼓』のサゲ、「半鐘はいけないよお、おじゃんになるから」でもお馴染み。半鐘の打ち方は、火元が遠い順に「一つ番」「二つ番」「三つ番」とあって、1度に叩く数で緊急の度合いが分かるという。いちばん近いのが「擦り番」。半鐘の中に撞木を突っ込んでがらがらがらとかき回すのである。これもやはり落語『火事息子』や『鼠穴』などのマクラから教わった。

ところが、ちょっと前、半鐘をねらった窃盗団が出たことがあったからか、火の見櫓からは次々と半鐘が撤去されてしまった。
それだけではなく、火の見櫓自体も、老朽化の波を受け、ひっそりと姿を消しつつある。
無理もない。今や防災無線がある。誰かが火の見櫓に上って半鐘叩く必要もないだろう。

でもね、火の見櫓のある風景、実は私、好きなんだよね。
この前、休日出勤をしたついでに幾つか写真に撮って来た。
以下に掲載します。

小美玉市田木谷。
海軍百里ヶ原飛行場(現航空自衛隊百里基地)の見張り塔を転用したものだという。
米軍の機銃掃射の弾痕が残っているらしい。

鉾田市借宿。
消防団の車庫の上に建てられている。ちょっと珍しい。

小美玉市小塙。
形としてはいちばん好きかな。
近くで見るとけっこうぼろぼろだった。

ふと、ボブ・ディランの『見張り塔からずっと』という曲を思い出した。関係ないけど。

2016年7月18日月曜日

行方市玉造を歩く

行方市玉造地区の中心部を歩いてきた。
平成の大合併で、たくさんの市が生まれたが、その市の中心というものが分散して希薄になった。それぞれの地区の中心部が、これまたまんべんなく寂れちゃってるんだよなあ。

かつての旧玉造町の中心部は、鹿島鉄道鉾田線の玉造町駅があった辺りから旧国道355号線沿いに続く玉造中央商店街にかけて。
しかし旧市街を大きく迂回したバイパスができ、鉄道は廃線となった。バイパス沿いにはベイシアができた。もはや街の中心部としての役割は終わってしまったと言っていい。

旧玉造町駅の空き地に車を止め、1時間ほど歩く。
ほとんどの店が閉まっている。ただ、往時の残滓がわずかにだが残るけど、それもいずれなくなって、ただの住宅地になっていくのだろう。
こうして、どこも同じのっぺりとした風景で塗りつぶされてしまうんだろうな。

では旧玉造町駅付近から。

公衆トイレ。
鹿島鉄道のどこかの駅舎を転用したんじゃなかったかなあ。
鹿島鉄道の公認キャラ「かしてつくん」が描かれております。




駅前通り。
突き当りが旧玉造町駅。


旧355号線に出て、中央商店街をぶらぶら歩く。

かつては美容室と食品部が併設された店舗のようです。

この洋品店は現役らしい。
頑張ってるなあ。

シブイ色合いの街並みでしょ。








もともとは看板建築なのを、当時の今風に改装したんでしょうなあ。

この蕎麦屋は現役でしょうな。
1度ここでもりそばを食べたことがありました。


旧国道355号線。

旧玉造町は、新撰組の芹沢鴨や平間重助を生んだ土地。高浜入り干拓阻止に際しては玉造漁協の力が大きかったという。なかなか骨のある町なのである。