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2009年7月29日水曜日

連日の宴会

先週の金曜は、水戸で宴会。
今回も大洗鹿島線に乗る。
山には百合の花。
高架を真っ直ぐに走る。気持ちがいい。
店は駅南のM水産。
どーんとまぐろの兜焼き。
刺身、天ぷら、手羽先といった充実のつまみで、きりっと冷えた生ビール。
もう言うことありませんな。
冷酒だと飲み過ぎるので、燗酒をちびちび飲む。
この季節、これがなくっちゃあ、と鰹の刺身を追加。
二次会は駅ビル。楽しい宴会でありました。

翌日、家で軽く一杯やっていると携帯が鳴る。
先輩に近所の中華料理屋に呼び出される。
肉野菜炒めと秋刀魚の刺身できりっと冷えた生ビール。
何も言うことありません。
二軒目は神立。いやあ盛り上がった。

もう若くないんだから無理しちゃいけないんだけど、飲み始めると調子に乗っちゃうんだよなあ。
わかっちゃいるけどやめられない。
まだまだ修業が足りません。

2009年7月22日水曜日

桂文楽 関東大震災

大正12年9月1日、正午前、東京をマグニチュード7.9の大地震が襲った。震度は7に達し、多くの家屋が倒壊した。昼食前で炊事をしていた家が多かったためか、各所から火の手が上がり、やがてそれは東京の街を焼き尽くした。
その時、文楽は2度目の妻、鵜飼富貴との別れ話の真っ最中だった。
5年前、文楽は糟糠の妻、おえんを捨て、日本橋の丸勘という旅館の入り婿になった。文楽襲名の前年のことで、丸勘の経済力が魅力だったことは間違いのないところであろう。
当時の楽屋雀は「1年ともつまい」と噂し合ったが、大方の予想に反し、その結婚は5年続いた。しかし、もう限界だった。
丸勘の一室で愁嘆場が繰り広げられそうになった刹那、突然、ぐらぐらっときた。この非常事態に別れ話も一時休戦。丸勘もこの時の火災で焼け落ちた。文楽は一家を率いて、富貴の親類を頼り、中野に避難する。
寄席も当分の間、再開は無理。そこで富貴の勧めもあり、文楽は1月前に弟子になったばかりの文雀(後の七代目橘家圓蔵)を伴って、水団を売り歩くことになる。
そのような状況に我慢できなくなった文楽は、富貴を捨て、北海道に旅巡業へ出てしまう。しかもその旅費は、かつて捨てた最初の妻おえんから借りたものだった。文楽を明るく如才のない、円満で機嫌のいい人とばかり見てはいけない。彼は(多くの優れた芸術家がそうであったように)稀代のエゴイストでもあった。
同じ震災の日。志ん生は田端にいた。2年前に金原亭馬きんで真打ちに昇進。翌年には高田の馬場の下宿屋の娘、清水りんと結婚し所帯を持っていた。この年、師匠六代目金原亭馬生の前名、古今亭志ん馬と改名していたが、生来のずぼらがたたり、方々で不義理を重ねて、赤貧洗うが如き生活を送っていた。
地震が起こると志ん生は、りんから財布を引ったくり、酒屋に駆け込んだ。酒屋の主人もこの最中にこのような客が来ることに面食らい、代金を取らずに逃げ出す。地震で激しく物が落ちる中、志ん生は心ゆくまで酒をあおった。
志ん生は「東京中の酒がなくなっちまうと思ったから」と言ったというが、酒でも飲まなければ恐くてしょうがなかったのではないか、と私は思う。何しろ彼は戦争中、空襲が恐くて家族を置いて満州に逃げた男だ。この時も、地震の混乱の中、新妻りんをほっぽり出して酒屋へ走っている。
稀代のエゴイストがここにもいる。

2009年7月20日月曜日

三笑亭夢楽師匠のこと その2

大学を卒業してから、1度、落研の発表会に行った時、楽屋で夢楽師匠と少し話をした。
師匠は神社のお守りを買って中身を見るのが好きだと言った。
「バチが当たるの、恐くないですか?」と私が訊くと、「ただの紙切れじゃないか。」と師匠は笑って答えた。師匠は合理主義者である。
私が茨城出身だと知ると、「じゃあ鹿島神宮のお守りを買ってきてよ。ああいう古い神社のが面白いんだ。」と師匠は言った。
その後、私は東京から遠ざかり、師匠とお会いするのもそれっきりとなってしまった。
師匠を最後に観たのは、浅草演芸ホールの高座だった。
師匠はひどく年老いていた。無理もない。あれから20年近く経っていたのだ。
師匠が高座に上がったのは、仲トリのひとつ前。
ネタは『妾馬』。大ネタだ。この位置で演じる噺ではない。ここで師匠は45分間、みっちりと熱演した。
客席は静まりかえっていた。熱演だったが、とちりは多く、噺も平板だった。
師匠が高座から下りると、入れ違いに十代目桂文治が上がった。文治の顔には苦笑いがあった。前で、長々と大ネタを演って、客席をしんとさせた師匠に対する非難の気持ちが、そこにはあった。文治は得意の『あわてもの』で客席を爆笑の渦に巻き込んだ。
師匠より1つ年上なのにも関わらず、文治の噺は若々しく勢いがあった。それが一層私を寂しくさせた。
師匠が衰えたのは、愛弟子の夢三四を亡くしてからだったという。
夢三四の噺をナマで聴いたことはない。誰かに『蒟蒻問答』を稽古している録音を聴いたことがあるだけだが、男っぽい歯切れのいい口調が印象的だった。確実に未来の落語界を背負って立つ逸材だったと思う。
その後、落研時代の同輩と電話で話したことがあった。「そういえば夢楽師匠、随分衰えたらしいな」と言われた私は、浅草でのことを話した。そして、暫しあの若々しかった師匠に思いをはせた。
間もなく師匠は寄席を引退した。それを私は桂平治のHPで知った。
2005年、師匠は亡くなった。80歳だった。
今にして思えば、あの『妾馬』を聴いておいてよかった。
あれは、後に控える、長年ライバルとしてしのぎを削った文治に対しての、意地のようなものだったと私は思う。あるいは、単に文治の楽屋入りが遅れたために、つないでいたのかもしれない。
いずれにせよ、あの『妾馬』は、私にとって忘れられない一席となった。その巡り合わせに感謝したい。

2009年7月15日水曜日

昼の池袋

平日の休み。
妻が「たまには寄席にでも行っておいでよ」と言ってくれたので、ありがたく出かけることにする。
日暮里で下りて、久々に谷中を歩く。谷中銀座を抜け、よみせ通りから西日暮里駅。
山手線で池袋へ。
池袋で昼食。梅しそロースカツ定食でビール2本。
池袋演芸場、昼の部を観る。
市江『転失気』、八朝『幇間腹』。うーん。
圓太郎『粗忽の釘』、口調がいいなあ。ビールが効いて意識が遠ざかる。
さん生『巌流島』、いいねえ。侍に威厳がある。
小菊姉さん、いい女です。
伯楽『猫の皿』で仲入り。志ん生・文楽のエピソードから上手く骨董の話につなげる。若い頃は、この人の独特の口調が苦手だったが、年を取っていい具合になってきたと思う。
くいつきは、ひな太郎『三方一両損』。もと志ん朝門下だけに、志ん朝の型通り。
権太楼は『金明竹』。上方弁の部分だけだが、爆笑を誘う。さすが。
トリは文楽『天災』。『三方一両損』とネタがつかないか。それはともかく、この人はこういう長屋ものがいいな。先代とは芸風が違うが、寄席には欠かせない存在だ。
九代目襲名の当時は、私も釈然としない思いだったが、すさまじい批判を受け、五代目小さんに名前を返しに行ったエピソードを知ると、さすがに気の毒に思う。
先代は先代。九代目は九代目なりに、自分だけの芸を確立してきたんだな。
先代小さんが決め、志ん朝が応援した襲名だ。私如きが文句を言う筋合いはない。
大学時代夢に見た「桂文楽」の一枚看板を見つめ、暫し感慨にふける。
東武デパートのkihachiでお土産を買って帰る。
強い日差しの、とても暑い一日でした。

2009年7月8日水曜日

谷口ジロー『冬の動物園』

年を取ると、新しいものを開拓する意欲がなくなってくる。
信用のおける作家の作品を追っていくだけで、けっこう手一杯になってくるものだ。
マンガ家の谷口ジローは、私にとってそんな信用のおける作り手の一人である。
元々絵の上手い人だったが、『犬を飼う』『坊ちゃんの時代』辺りから名人の域に達したような気がする。絵に山っ気が抜けて、枯淡の趣が出てきた。それでいて、細部まで一切おろそかにしない描写力がある。一つ一つのエピソードを丹念に積み上げ、人の心を打つストーリーも健在だ。『遙かな町へ』といった大作はもちろん、『歩く人』、『孤独のグルメ』などの小品も素晴らしい。
そして最新作、『冬の動物園』。谷口ジローの自伝的連作である。
時は昭和40年代。京都の織物問屋に勤めていた若者が、東京に出てマンガ家のアシスタントになり、デビュー作を書き上げるまでの話だ。何者かになろうとしてもがく主人公、浜口の姿が、甘酸っぱく胸に迫る。
脇役陣も多彩だ。織物問屋の社長の娘、綾子。故郷鳥取の友人、田村。マンガ家、近藤。アシスタントの森脇、藤田。(古株のアシスタント森脇の屈折具合が、また切ない。)編集の東野。浜口の10歳年上の兄。近藤の友人で無頼のイラストレーター、菊地。浜口とデビュー作のストーリーを考える病気の美少女、茉莉子。
特に浜口と茉莉子のラブストーリーはいい。茉莉子の可憐で、それでいて大人びた佇まい。茉莉子のためにひたむきにマンガに立ち向かう浜口。二人だけにしか出来ない物語が紡ぎ出される。思わず鼻がつんとなる。
私はこの本を宮脇書店で買った後、ドドールでコーヒーを飲みながら読んだのだが、涙がこみ上げてきて困った、困った。
多分、この後も話は続くんじゃないかな。続くといいなと思います。

2009年7月3日金曜日

常陸太田を歩く

出張で常陸太田へ行く。
会議終了後、太田の街を歩く。
太田の旧市街は、鯨ヶ岡といわれる小高い丘の上にある。
中央駐車場に車を止め、街をぶらつく。
生憎の雨。だが、雨の古い町並みもしっとりとしていいな。
土蔵をそのまま使ったスポーツ用品店、書店。3階建ての煉瓦造りの倉庫。瀟洒な洋館。
何たって徳川以前、常陸の国を治めた佐竹氏の本拠地なのだ。歴史が違う。
また坂がいい。岡から下る坂道の1本1本に風情がある。
あれよあれよという間にフィルム1本撮りきってしまう。
ところが、商店街のどの店を覗いても、フィルムを売っている店がない。
コンビニにさえ売っていないのだ。
私はそんなに無理な注文をしているのだろうか、と途方に暮れる。
仕方がないので、駐車場に戻り、車に乗って岡を下り、新市街にフィルムを買いに行った。
スーパーに入っている写真屋で、やっとのことで手に入れる。
再度、駐車場に戻り、心ゆくまで歩く。
最後に名物「鯨焼き」を土産に買う。簡単に言えば、鯛焼きの鯨版。地元の高校生も食べていた。
カスタードクリームと小倉を2個ずつ。1個100円。家で食べたら、鯛焼きよりも皮がしっかりと厚く、ホットケーキみたい。形もキュート。妻も子供たちも、大喜びで食べておりました。