大学を卒業してから、1度、落研の発表会に行った時、楽屋で夢楽師匠と少し話をした。
師匠は神社のお守りを買って中身を見るのが好きだと言った。
「バチが当たるの、恐くないですか?」と私が訊くと、「ただの紙切れじゃないか。」と師匠は笑って答えた。師匠は合理主義者である。
私が茨城出身だと知ると、「じゃあ鹿島神宮のお守りを買ってきてよ。ああいう古い神社のが面白いんだ。」と師匠は言った。
その後、私は東京から遠ざかり、師匠とお会いするのもそれっきりとなってしまった。
師匠を最後に観たのは、浅草演芸ホールの高座だった。
師匠はひどく年老いていた。無理もない。あれから20年近く経っていたのだ。
師匠が高座に上がったのは、仲トリのひとつ前。
ネタは『妾馬』。大ネタだ。この位置で演じる噺ではない。ここで師匠は45分間、みっちりと熱演した。
客席は静まりかえっていた。熱演だったが、とちりは多く、噺も平板だった。
師匠が高座から下りると、入れ違いに十代目桂文治が上がった。文治の顔には苦笑いがあった。前で、長々と大ネタを演って、客席をしんとさせた師匠に対する非難の気持ちが、そこにはあった。文治は得意の『あわてもの』で客席を爆笑の渦に巻き込んだ。
師匠より1つ年上なのにも関わらず、文治の噺は若々しく勢いがあった。それが一層私を寂しくさせた。
師匠が衰えたのは、愛弟子の夢三四を亡くしてからだったという。
夢三四の噺をナマで聴いたことはない。誰かに『蒟蒻問答』を稽古している録音を聴いたことがあるだけだが、男っぽい歯切れのいい口調が印象的だった。確実に未来の落語界を背負って立つ逸材だったと思う。
その後、落研時代の同輩と電話で話したことがあった。「そういえば夢楽師匠、随分衰えたらしいな」と言われた私は、浅草でのことを話した。そして、暫しあの若々しかった師匠に思いをはせた。
間もなく師匠は寄席を引退した。それを私は桂平治のHPで知った。
2005年、師匠は亡くなった。80歳だった。
今にして思えば、あの『妾馬』を聴いておいてよかった。
あれは、後に控える、長年ライバルとしてしのぎを削った文治に対しての、意地のようなものだったと私は思う。あるいは、単に文治の楽屋入りが遅れたために、つないでいたのかもしれない。
いずれにせよ、あの『妾馬』は、私にとって忘れられない一席となった。その巡り合わせに感謝したい。
0 件のコメント:
コメントを投稿