大正12年9月1日、正午前、東京をマグニチュード7.9の大地震が襲った。震度は7に達し、多くの家屋が倒壊した。昼食前で炊事をしていた家が多かったためか、各所から火の手が上がり、やがてそれは東京の街を焼き尽くした。
その時、文楽は2度目の妻、鵜飼富貴との別れ話の真っ最中だった。
5年前、文楽は糟糠の妻、おえんを捨て、日本橋の丸勘という旅館の入り婿になった。文楽襲名の前年のことで、丸勘の経済力が魅力だったことは間違いのないところであろう。
当時の楽屋雀は「1年ともつまい」と噂し合ったが、大方の予想に反し、その結婚は5年続いた。しかし、もう限界だった。
丸勘の一室で愁嘆場が繰り広げられそうになった刹那、突然、ぐらぐらっときた。この非常事態に別れ話も一時休戦。丸勘もこの時の火災で焼け落ちた。文楽は一家を率いて、富貴の親類を頼り、中野に避難する。
寄席も当分の間、再開は無理。そこで富貴の勧めもあり、文楽は1月前に弟子になったばかりの文雀(後の七代目橘家圓蔵)を伴って、水団を売り歩くことになる。
そのような状況に我慢できなくなった文楽は、富貴を捨て、北海道に旅巡業へ出てしまう。しかもその旅費は、かつて捨てた最初の妻おえんから借りたものだった。文楽を明るく如才のない、円満で機嫌のいい人とばかり見てはいけない。彼は(多くの優れた芸術家がそうであったように)稀代のエゴイストでもあった。
同じ震災の日。志ん生は田端にいた。2年前に金原亭馬きんで真打ちに昇進。翌年には高田の馬場の下宿屋の娘、清水りんと結婚し所帯を持っていた。この年、師匠六代目金原亭馬生の前名、古今亭志ん馬と改名していたが、生来のずぼらがたたり、方々で不義理を重ねて、赤貧洗うが如き生活を送っていた。
地震が起こると志ん生は、りんから財布を引ったくり、酒屋に駆け込んだ。酒屋の主人もこの最中にこのような客が来ることに面食らい、代金を取らずに逃げ出す。地震で激しく物が落ちる中、志ん生は心ゆくまで酒をあおった。
志ん生は「東京中の酒がなくなっちまうと思ったから」と言ったというが、酒でも飲まなければ恐くてしょうがなかったのではないか、と私は思う。何しろ彼は戦争中、空襲が恐くて家族を置いて満州に逃げた男だ。この時も、地震の混乱の中、新妻りんをほっぽり出して酒屋へ走っている。
稀代のエゴイストがここにもいる。
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