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2009年12月8日火曜日

襲名考 その1

文楽・志ん生・圓生が昭和の名人なら、平成の名人は志ん朝・談志・小三治の3人だと思うが、こう並べてみると、昭和と平成では際立った違いがある。
昭和の名人が、それぞれの亭号の最高位か、それに準じた名前を襲名しているのに対し、平成の名人の名前はいずれも小さい。
志ん朝を真打ちで名乗ったのはたった一人。談志は明治期の「寄席四天王」として売れた名前だが、名人が名乗る名前ではない。小三治は将来小さんを継ぐ有望株に与えられる名前で、あくまで大看板は小さんである。
つまり、彼らは彼らの芸に相応しい名前を継ぐことなく、若手の名前のままでいることを選んだのだ。
実力者ほど名前を変えない。志ん朝・談志・小三治の同世代では圓楽・圓弥・圓窓の圓生門下。彼らに続く世代でも、小朝・さん喬なども芸の格と名前とのギャップがあると思う。芸協では米丸・歌丸の師弟、小遊三あたりか。
確かに売れているのに名前を変えるのは大きなリスクを伴う。何せ圓歌・圓蔵がいまだに歌奴・圓鏡のイメージで見られがちなのだ。また、自分で名前を大きくしたいという気持ちもあるだろう。
古くは三遊亭圓朝が弟子に三遊亭の最高位圓生を継がせ、圓朝の名を不朽のものにした。(小朝も自分の弟子に五明楼玉の輔や橘家圓太郎など由緒ある名前を継がせている。)橘家圓喬は自らの至芸で、もともとの二つ目名を落語界の永久欠番のような名前にした。(志ん朝という名前も近々そうなるに違いない。)
それに、襲名には色々な事情が絡む。圓生一門は襲名どころではない状況だったろうし、適当な名前もなかったのかもしれない。小三治は、小さんが衰えたとき「さん翁」にでもなって譲ってくれれば六代目を継げただろうに、完全にタイミングを逸してしまった。先代の遺族との関係も複雑らしい。(最近世襲による襲名が目立つのも、原因は案外この辺にあるのではないか。)
もちろん、襲名は落語家の側の問題で、門外漢が口を出すべき問題ではない。現文楽襲名の際、囂々たる非難の中、襲名返上を小さんに申し出て慰められたエピソードなどを聞くと気の毒だと思う。
でも、歌舞伎で言えば、団十郎より海老蔵の方がいい、歌右衛門より福助の方がいいという状態は寂しいものだと思うのだが。

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