昭和20年8月15日、戦争は終わった。
当時の落語協会で、文楽より上にいた落語家は、四代目柳家小さんと八代目桂文治の 2人だけだった。
一世を風靡した柳家三語楼も、名人と誉れ高い五代目三遊亭圓生も既に亡かった。
三語楼は、向かいに住んでいた志ん生の次男に「強次」という名前を付け、それを置き土産にするように、間もなく死んだ。(強次は長じて古今亭志ん朝となる。)
五代目圓生、人呼んでデブの圓生。でっぷりとした外見に似合わず色気のある高座だったという。「三年目」「二番煎じ」「三十石」「文七元結」などを得意とした。戦後、人形町末広の席亭が、文楽が「松山鏡」を演っているのを聴いて、「今は他に人がいないから、この人を名人とか言っているが、圓生さんのこの噺を聴いたら、とても聴いていられないよ」と言っていたと、立川談志が証言している。
小さんは名人ではあったが、地味な芸風で爆発的な人気はない。文治はもはや盛りを過ぎていた。
ライバル志ん生と六代目圓生は、満州に行ったまま行方不明。
柳橋と金馬は戦時中、時流に乗った新作で売れ、どこか本格派とは言いにくい。
つまり、そのような状況に文楽はいたのだ。
大正の頃から売れっ子で、本格派の実力者として着実に地歩を固めたものの、戦時下の言論統制で不遇を託つ。これは褒めやすいわなあ。
もちろん、それだけではない。文楽の噺には、華があり艶があり品があった。明治大正の匂いを色濃く感じさせる、近代文学のような佇まいがあった。大衆の人気は圧倒的でないものの、言論界をリードする批評家、識者にとっては魅力的な存在だった。
しかも、昭和20年当時、文楽は53歳。体力的にも経験的にも円熟期に入る時期である。迫力もあり、豊かなふくらみもある。絶好の状況で、絶好の年齢を迎えていたのだ。
昭和20年代、文楽は東京落語界の頂点に駆け上る。それはまさに文楽の力と時運が絶妙にマッチした結果だったのである。
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