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2020年1月16日木曜日

大正時代の東京落語界 ~演芸会社と睦会~


このブログで、昭和53年(1978年)に起きた、落語協会分裂騒動についての記事をいくつか書いてきた。
先日、コメントで「落語協会分裂は鈴本が仕掛人説」を知った。その後、大正時代の演芸会社設立にも鈴本が大きく関わっていた、ということもご教示いただく。そのコメントの中で紹介してくださった、上野鈴本のHPにある「寄席主人覚え書」という記事を読んでみた。これが面白かった。
ということで、演芸会社について、ちょっと調べてみたことを記事にしてみる。

「東京寄席演芸株式会社」は大正6年(1917年)8月、東京市内の有力な寄席が中心となって設立された。社長は上野鈴本席亭である。
『図説・落語の歴史』(山本進編/河出書房新社)に、『文芸倶楽部』(大正610月号)に出た会社設立の趣旨が載っている。以下引用する。
「寄席の営業法が依然古来の因習を守って時勢の進歩に伴わない、一方出演者がみだりに休演をして規律が正しくない、それらを根本的に改革するには、従来の歩合制では思うようなことができない、よって芸人を定給で抱えて、これを同盟の席に供給してもって革新をはかる。」
鈴本のHP「寄席主人覚え書」は三代目席亭、鈴木孝一郎(1880年生まれ、1961年没)が昭和32年(1957年)に東京新聞に連載したもの。この中で鈴木は演芸会社設立を「わたしの案」と言っているから、これが鈴本主導によるものだったことが分かる。
それに続けて、彼は「わたしとしては人員整理の腹もあったんですから、必要の芸人さえ残れば、あとはむしろ掃いちまった(お払い箱にしてしまった)方がさばさばしていいぐらいに思っていた」と言っている。
つまり、鈴木としては、要らない芸人を排除する意図を含んでいたということだ。この辺りに「企業論理第一の鈴本」の思想が見て取れる。
そういった意図が透けて見えたのだろう、その八月下席には反対派が立ち上がる。反対派は「一部の者だけが優遇されるとして月給の額に不満を持つ芸人と、従来の歩合制に固執する席亭」(『図説・落語の歴史』より)であった。

東京寄席演芸会社には錚々たる顔ぶれが並んだ。寄席側は、上野鈴本を筆頭に、神田立花、京橋金沢、浅草並木、両国立花、本郷川竹といったところ、芸人は、三代目柳家小さん、初代三遊亭圓右、四代目橘家圓蔵という当時の名人上手に加え、三升家小勝、柳家三語楼、六代目林家正蔵といった売れっ子、次代を担う、翁家さん馬(後の八代目桂文治)、三遊亭圓窓(後の五代目三遊亭圓生)などが名を連ねた。
一方、反対派の「三遊柳連睦会」は、会長四代目春風亭柳枝(後に華柳と改名)、副会長五代目柳亭左楽、大阪から、売れっ子の桂小南を迎えた。寄席は、人形町末廣、神田白梅、芝恵智十など。
メンバー的には、圧倒的に会社派が強い。睦会など到底太刀打ちできるはずがない。ところが、そうではないところが、人間の面白い所だ。
笠間稲荷神社、東門に、大正9年、睦会が奉納した額がある。そこには、当時の睦会の芸人や寄席の名前がずらりと並んでいる。





これを見ると、政治講談の伊藤痴遊、浮世節の立花家橘之助という大御所が参加、演芸会社から談洲楼燕枝、林家正蔵、金原亭馬生(後の四代目古今亭志ん生)が移籍し、講談からも神田伯山、神田伯龍といった実力者の名前が見える。
『図説・落語の歴史』では「芸人たちの意気込みに加え、当時抜群の話術で政治講談に人気を誇った伊藤痴遊の応援加入を得たことによって、形勢は睦会有利に傾いた」とある。
鈴本の席亭、鈴木孝一郎は次のように語る。
「(華柳、左楽という人は)芸よりも人を動かすことが巧くて、そこへいくとその点、まるでゼロの会社派の芸人はまるでお話になりません。でも、客が来なくても月給制だから芸人は驚かないが、客は来ないは、月給は払わなけりゃならないこっちはまるでお手上げです。」
「大正12年大震災で東京の寄席がめちゃくちゃになってしまったのを機会に演芸会社も解散してしまいました。」

理念だけでは人は動かない。昭和の落語協会分裂騒動でも見られた現象である。
『落語の歴史』(暉峻康隆/講談社)にも「天狗の多い咄家のことだから、査定された月給に不平を持つのも当然だし、また腕に自信のある咄家は、月給でしばられて稼ぎを制約されるのも不満であったろう。また席亭にしても、出演者の顔付けを会社から一方的におしつけられる制度では腕のふるいようがなく、これまた不満組が出たのはやむをえない」と書かれている。

ただ、大正の分裂騒動で東京落語界は活性化した。
層が薄い睦会は、若手を積極的に売り出した。そこで「睦の四天王」が生まれる。それが、八代目桂文楽、六代目春風亭柳橋、三代目春風亭柳好、初代桂小文治。彼らは戦後の落語黄金期に至るまで、長年にわたって落語界を牽引することになる。
また東西交流も盛んになり、上方ネタが流入し、出囃子の使用も始まった。
『図説・落語の歴史』に言う。「その結果として、芸の内容向上はさておき、興行面だけから見れば、大正初期の沈滞期をようやく脱し、東京の落語界は大いに活気を取り戻すこととなった。」

鈴本の仕掛けは失敗に終わったが、結果的に見れば、大正の落語ブームを生むきっかけとなった。鈴本としては不本意だろうけど。

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