小莚が東京に帰った時、彼の芸の師匠、朝寝坊むらくは既に東京を捨てて旅に出ていた。
それにはこのような経緯があった。
新富座の芝居茶屋で四代目橘家圓蔵と口論の末、むらくが圓蔵を殴った。立花家橘之助との三角関係が原因と言われている。橘之助は浮世節の大家。明治、大正の演芸界で女帝と言われた人物である。もともとむらくは大阪で橘之助に見出され、立花家左近として東京でデビューした。そして、真打ち昇進時に襲名した「朝寝坊むらく」の名前は、橘之助の亡夫のものだった。いかに橘之助がむらくを支えたかが分かる。橘之助はむらくよりも15歳年上だったが、二人は男女の仲になる。まるで『真景累ヶ淵』の豊志賀と新吉のようだが、橘之助は豊志賀のように一途ではなかった。橘之助は恋多き女であり、その情夫の一人が圓蔵だった。圓蔵からすれば、師匠と深い仲になったむらくを身の程知らずと思っていたかもしれないし、また、橘之助の引き立てでめきめき売れ出し、名人の道をひた走るむらくに脅威も感じただろう。いずれにしても、圓蔵はむらくに対して激しい敵意を燃やしていた。むらくにしろ、橘之助の情夫である圓蔵に嫌悪感を抱いていたに違いない。二人は一触即発の状態だったのだ。
圓蔵はむらくよりも18歳年長。大正期の三遊派をリードした大看板である。上下関係の厳しい芸界にあって、そのような人間を殴って無事でいられるはずもない。むらくは名前を橋本川柳に改め、長い旅に出た。
この旅についていった若い落語家がいる。初代三遊亭圓歌門下の歌笑。元は講釈師だったが、落語家に転向していた。彼は師匠の世話を兄弟弟子の歌奴に任せ、川柳の後を追う。そして巡業の間、たっぷりと川柳の芸を吸収した。この歌笑が後の三代目三遊亭金馬である。後年「三代目圓馬の豪放な部分は金馬が、繊細な部分は文楽が受け継いだ」と言われた。三代目圓馬の若き日、橋本川柳時代の勢いのある芸に薫陶を受けた結果であると言われている。
こうして、ひとまず小莚はむらくと別れた。ただ、二人の縁はここで切れたわけではなかった。
余談。四代目橘家圓蔵は四代目三遊亭圓生門下である。二つ目で橘家圓蔵の名前を貰い、その名前のまま真打ちに昇進した。人呼んで「品川の圓蔵」。その能弁は、芥川龍之介をして「全身これ舌」と言わしめた。三代目柳家小さんとともに大正の落語界を牽引し、もともと二つ目名の圓蔵を一代で大看板にのし上げた。五代目三遊亭圓生襲名を決意するも59歳で急死。一門には五代目、六代目の圓生がいる。
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