むらくのもとに通って1年が経った。しかし、小莚は『道灌』しか教えてもらえなかった。
ある大雪の夜。小莚は前座として牛込藁店の寄席に出ていた。雪のため師匠連が山の手まで行くのを億劫がって抜いてしまう。当然、高座に穴が空いた。その度に小莚が上がることになるが、出来るのは『道灌』しかない。とうとう一晩に3回も『道灌』を演ることになってしまった。さすがに3度目は小莚も泣きべそをかきながらの高座であった。高座を下りた小莚に、見かねた客が祝儀をくれた。いい話だ。この事があって後、小莚は「道灌屋」「道灌小僧」という異名をとる。(ちなみにこのエピソードは、古谷三敏『寄席芸人伝』の『道灌小僧』という話にそのまま取り入れられている。)
なぜむらくは小莚に『道灌』しか教えなかったか、それにはこんな話がある。
むらくは、かつて初代柳家小せんと1年間同じ寄席に出たことがあった。初代小せん。廓噺に天才的な冴えをみせた。人呼んで盲の小せん。後年業病のため失明、高座を退き、師匠三代目小さんの勧めで後進の指導に専念した。それは「小せん学校」と呼ばれ、柳・三遊といった派を問わず多くの落語家が薫陶を受けた。小せんは、その寄席でむらくが同じ噺を2度とかけなかったのに対し、1年間『道灌』1席で通した。その時、むらくは「あいつに負けた」ともらしたという。
その『道灌』を、むらくは小莚に1年間演じさせた。とりわけ小莚に厳しかったことといい、どこかでむらくは彼に期する所があったのだろう。
前座修業が2年になった。小莚も、よくむらくの厳しい稽古に耐えた。ある時小莚が『代脈』を演じ終えて楽屋に戻った時、「銭の高を間違えた」と言って、むらくから叱責された。その時の叱責はいつにも増して厳しく、同席していた師匠小南がとりなしてくれても聞く耳をもってくれない。さんざんにやりこめた後、むらくはこう言った。「来月から二つ目にしてやる。」
当時でも前座修業は5年が当たり前。異例の抜擢である。つまり、この叱責は、小莚がこれで天狗にならぬよう、いわば小言のための小言だったのだ。小莚は感激のあまり号泣したという。
余談だが、後年文楽は、立川談志(当時の柳家小ゑん)が勉強会で『源平盛衰記』を演った後、満座の中彼を叱責した。談志が天狗になっていたので、締めておこうとしての小言だったらしい。もちろんかつての、むらくの自分への小言を意識していただろう。親心もあったにちがいない。談志の才能を認めてのことだったと思う。しかし、談志は文楽の意図を理解はしたが、感激もしなかったし反省もしなかった。
こうして小莚は二つ目に昇進した。しかし、彼の前途は順風満帆というわけにはいかなかったのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿