ページビューの合計

2020年1月22日水曜日

続水戸射爆場のこと

以前、水戸射爆場の記事を書いた。

水戸射爆場のこと

現在のひたちなか市と東海村にまたがる広大な土地で、戦後米軍が爆撃演習を行っていた。射爆場の歴史は事故の歴史でもあって、前回は「ゴードン事件」について触れた。
他にも「那珂湊市街地誤射事件」というのがある。詳しいことが分かったので、ここで紹介してみたい。
昭和36年(1961年)11月、那珂湊市(現ひたちなか市)釈迦町の民家に米軍機の機関銃弾数十発が撃ち込まれた。釈迦町は那珂湊駅近くの繁華街だった。弾丸は寝ていた子どもの布団の脇にまで飛んできたという。
同月21日には当時の真名子調達庁次長が、日米合同委員会施設特別委員会の席上、米側議長のスパングラー大佐に演習中止を申し入れた。横田基地配属の第三爆撃連隊司令長官レオ・ハウエル中佐は、「誤射の原因は二重安全装置の故障で、パイロットの過失ではない。米空軍は直ちに補償問題を解決する」と語っている。
しかし、翌月13日から米軍は、市民からの抗議、決議文に何ら回答もしないまま演習を再開する。那珂湊市民はトラック3台に乗り、マイクで市内で演習再開を知らせながら射爆場までデモ行進。代表者がエバンス少佐と会見し抗議した。

下の図の〇印が誤投下のあった場所。いかに多発したかが分かる。


当時の新聞記事によると、昭和44年(1969年)までに周辺地域で起きた誤射、誤投下などの事故は約260件に上り、海辺で遊んでいた子どもや畑仕事に向かう途中の農家の人たちなど、5人の命が奪われたという。地域住民は土曜、日曜を除いて連日100ホーンを超える爆音にも悩まされた。保育園で昼寝をしていた幼児は一斉に泣き出し、小中学校では授業がしばしば中断した。生徒の学力低下も話題になったほどだった。
昭和39年(1964年)1月に移転先として伊豆諸島御蔵島が候補に挙がる。将来、東海村に原子力施設が集中することが予想されたため、政府としても出来るだけ早い移転が望ましいと考えたのである。しかし島民300人は立ち退き、天然記念物の動植物が生息する自然豊かな島を射爆場にするということで激しい反発を招き、同年5月には断念に追い込まれた。
その後、昭和41年(1966年)同じ伊豆諸島の新島移転が決定されたが、これも地元の強硬な反対に遭う。昭和44年(1969年)3月20日には防衛庁が設置計画と対策を発表するも聞き入れられず、ついに7月9日、米軍に断念を通告した。新島の代替地として、青森県三沢や沖縄県伊江島を挙げる声が上がったが、横田基地から遠いところから米軍が応じる見通しも立たず、結局、昭和48年(1973年)3月、移転無しでの返還が決まった。
跡地は、一時、原研の核融合研究所建設の話が持ち上がったが、結局、交通安全センター中央研修所と国営ひたち海浜公園として利用されることになった。

昭和45年(1970年)10月出版の「日本作文の会」が編集した『日本子ども風土記8・茨城』という本がある。この中に、那珂湊市立阿字ヶ浦中学校3年の生徒が書いた作文が収められていたので、紹介しよう。これが当時の日常だったのである。
  
  水戸射爆場

 キーン、ズズーン。

 クラスの友だちの、エンピツを持っている手が耳に行く・・・。
 こういうことが一日に何度となく繰り返される。これが私たちの実態なのです。これは、毎年話題になる、水戸射爆場が、私たちの学校から歩いて、約二、三分というところにあるためです。
 その射爆場の入り口は、立入禁止の立て札と、バラ線で固く閉じられています。
 そのため、交通も三角形の二辺となっても止むを得ず、わざわざ遠回りをして行かなければならないのです。
 すさまじい音にいらいらし、防音工事の新校舎がはやくできればよいのだがと、それを心待ちにしながら、三年生になってしまいました。
 残り少ない中学生活ですが、私たちの後輩を考え、同じ苦しみを、いやそれ以上かも知れない苦しみを味わわせたくないと思います。

国営ひたち海浜公園、見晴らしが丘を望む眺め。
初夏はネモフィラ、秋はコキアで賑わうが、冬枯れの光景は射爆場当時をしのばせる。


0 件のコメント: